今日5月15日は沖縄が日本本土に復帰した記念日です。あれから50年を迎えました。復帰は私の中学の時で、これまで使っていた米ドルから日本円に変わり、指で感じる紙幣の差を今でも覚えています。
沖縄は今でも本土との経済格差や差別の問題、基地の問題など多くの問題を抱えています。それを書いたら膨大の量になると考えています(今回以前書いたブログを久々に読み返しました。関連する記事を赤い字でリンクしておきます)。
1945年米軍が上陸し唯一陸上戦を展開して、有形、無形とわず多くものが破壊された沖縄でした(→沖縄慰霊の日、→沖縄戦から70年)。美しい那覇の街並みも丁度ウクライナ戦争のマリウポリのように 破壊され尽くされてました。
1952年のサンフランシスコ講和条約により、日本の主権・平等を認める代わりに、沖縄・小笠原を米国は支配下におくことが承認されました。
占領下の沖縄では日本語教育から英語教育への変換も試みたようですが、これをどうにか拒否して日本本土と同じ教科書を使い勉強出来たのは、幸運なことだと私は考えています。 米国に屈して英語教育を受けていたら、私もきっとネイティブな英語を喋っていたのかも知れません。 その方がグローバルな現在では良かったんじゃないか、復帰せずにグアムのような米国領となった方が良かったと考える方もいるかも知れません。 私は全く同意しません。
言葉は文化であり、言葉は心(思想)を体現化するものです。人が人であるための考え、感性を磨くのが言語です。
グローバル社会で英語教育が重要だと叫ばれています。英語が使えることはとても視野が広がると考えています。しかし重要なのは英語圏の小学生が使える程度の会話を習得するよりも考える力を獲得する方が大切だと思うのです。 単なる翻訳はこれから進歩するAIにまかせればいいと考えています。あと10年20年もすればタブレット端末で異なる言語の同時会話が可能になると考えています(→語学力とグローバル力の違い)。
時々、本土の方(沖縄でも知らない方もいます)が沖縄の言葉が理解しにくいために、日本語と違うと考えている方もいます。沖縄の方言(ウチナーグチ)は日本語の1方言に過ぎないのです。中国語や英語ではありません。
沖縄の方言には今でも京都の古語が沢山残っています(→以前のブログ)。もしも米国占領の沖縄で、米国が望む英語教育に代わってしまっていたら、これまで脈々と先祖から繋がった言葉(=文化や思考)を失うことになったのかもしれません。
高校卒業後、初めて沖縄を離れて東京の予備校へ。その時の予備校の仲間から「英語は勉強しなくても満点だよね」と言われたことがありました。恐らく多くの本土の方は沖縄では復帰まで英語教育を受けたと勘違いしていたのかも知れません。
私は戦後の沖縄、それも田舎の村に生まれ育ちました。田舎のお陰で、電気や水道、電話などが子供の頃にない時代を覚えています。子供の仕事として井戸の水汲みなども経験しました。素朴でも一生懸命働くことの大切さを教えて貰った方々がいました(→汗水垂らして働く) 。ユニセフからの脱脂粉乳や小さなパンも経験しました(→「1つのパン」がつなぐ社会)
短期間に色々な生活が激変してゆく過程を実際に経験することが出来ました。電気の明かり、白熱球から蛍光灯に変わった瞬間の家の様子、水道が通った日のこと。高校までキビ畑をはじめ農作業の経験や家畜の世話など。初めて沖縄を出て東京の予備校で過ごした時期の挫折感や孤独も経験しました(→クリスマスに思うこと)。
そして社会的には民主主義国家である米国が占領下では民主主義的でないこと、キリスト教徒と称する方が自分の利益を守る為に戦争を行うこと。差別された側がより弱い立場を差別する構造。復帰前、復帰後の子供時代に色々な貴重な経験をさせてくれたのが沖縄でした(→何度も繰り返される悲劇)。
今日、復帰50年目を迎えた沖縄。今でも多くの矛盾を抱えたこの地から、冷静な目で日本や世界の動きみてゆきたいと願うのです(→復帰45周年)。
沖縄にとって必ずしもいいとは思えない戦中・戦後の歩みですが、私個人にとっては他の地域で生まれていたら味わえない経験を数多く学べた沖縄に感謝したいです。平和や自由・平等が如何に大切なものか、そしてこれを維持するのは破壊することよりも忍耐が必要であることを卓上の学問からではなく、肌感覚で感じ取れたのが沖縄だったのです。
今日は復帰50年の記念日ですが、明日からもなにも変わらない日常が続きます。その1日1日を愛おしく大切に生き続けたいのです💖
<P.S>
愛の反対は憎しみではなく、無関心です(The opposite of love is not hate, it’s indifference.)。しかし関心を持つことは喜びと共に苦しいこともあるのです。いつかこれを乗り越える力を持ちたいと願うのです。
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