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日記・コラム・つぶやき

2019年2月 1日 (金)

自分への評価は他人が行うもの

(今週は生け花クラブがお休みでお花の話しが出来ません。何か書こうと思ったら、4年ほど前にボツにした記事が残っていました。私自身も自分を見つめ直して謙虚になるためにアップしたいと思います・・・生意気なことと書いているかも知れませんがご容赦を願います)

時々、仕事をしていると色々な場面でぶつかることがあります。

「自分が1番・・・している」「自分は1番・・・している」と話す方います。それこそ疑いもなく自分がそのような存在であるかのように話をするのです。

Th_189263 しかしそれは根本的に誤りなのです。「自分が1番・・・」は自分で自分の評価することではなくて他者からの評価を受けることなのです。 他者が「貴方が1番・・・です」と評価するのであればそれは正しいのかも知れません。

人間は「自己愛的」な存在です。内なる自分にたいして「自分が1番・・」と認めることは自己防衛としても問題ない行動です。

しかし多くの場面で「自分が1番・・・している」と妄想的に話すことで、普通に努力している人のモチベーションを下げることに気がついていません。 

「自分が1番・・・している」というのは自分の不当な評価への不満を違う形にして話しているだけで、根底にある自分を認めてくれないことへの不満・不平でしかないのです。 

自分だけが特別な存在と主張すればする程、周りと解離し、呆れ果てる存在になります。 早くそれに気がついて立ち直れたら「裸の王様」にならなくてすむと思うのです。 

2019年1月 2日 (水)

2019年明けましておめでとうございます

2019年明けましておめでとうございます。平成も終わり今年は新しい年号の始まりでもありますね。 これからの時代が安定して平和でありますことを祈りたいと思います。                             
Th_img_2032 私にとっては1月2日が仕事始めとなりました。今日は朝から病院に行って、挨拶回りで、夕方からはラジオ放送もあります。 病院は外来部門が1月3日まで休みですが、入院患者さんや透析患者さんもいますので、365日動いている状況です。

病院の入口も正月の飾り付けで、いよいよ今年が始まったことを実感させてくれます。    

実は昨年同様、年始年末を台北で過ごしました。何時ものようにぎりぎりまで待って、病院や患者さんが落ち着いているかどうかを確認、12月31日から1月1日の1泊2日で台湾へと出かけました。 緊急の手術などが入ると当然旅行はキャンセルとなります。 
 台北の天気予報はずっと雨マークでしたが、外国に行くと言っても沖縄からだと九州より近く、LCCが幾つか飛んでいますので格安でゆくことが可能です。更に私達日本人にとっていいのは、台湾は旧暦で祝いますので、新暦の1月1日は普通の日と変わらず、観光地もお店も通常通り開いていることが多いのです。
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天気予報で通り、雨模様で、特に九扮では一時土砂降りに近かったのですが、そのためか昨年より人が少なく、傘をさしても余り邪魔にはなりませんでした。
Th_20181231 今回、はじめて十分(シーフェン)へ出かけました。これはよく台湾の旅番組でも紹介されていた場所で、台湾でも唯一、鉄道の上で天燈(チャイニーズランタン)を挙げることが出来ます。 天燈は人の高さほどあり、4方向に面があり、それぞれの場所に願い事を書き入れて、それを天に挙げます。 夜に浮かぶ天燈は神秘的で美しい風景でした。 私も個人的な願い事と人類の平和について書きました。 写真も撮りましたが、私の写真は非公開ですcoldsweats01
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今年は台北101のカウントダウンをホテルから観ることが出来ました。事前に幾つかのホテルのチェックをしていましたが、今回のホテルがコストパフォーマンスは一番良いと思いました。どうしても右側が建物に接してしまうのですが・・・
昨年は雨が降っていませんでしたので、101の近くの開放された車道に座り込んで観ましたが、あいにくの小雨模様で今回は座ることが出来ないと考え、ホテルからにしたのです。 台湾を満喫して帰って来ました。
 
二日ぶりにみる病院の景色も新鮮で今年また頑張って行くことを改めて決意しました。                                                  
年齢も重ねても、不安や迷いだらけですが、このブログを通して、沢山の皆様方と繫がっていることに感謝しています。 私のブログは気に入れない文面や誤字脱字も多いと思いますがどうかお許し下さい。 
 
どうか2019年も宜しくお願い申し上げます。

2018年12月25日 (火)

だいじょうぶだよ

クリスマスの時期が来ると、クリスチャンじゃない私も、皆が温かく幸せになって欲しいと願いながら過ごしています。

ただ今の世界情勢をみると、自分が不幸にさせられたのが他の原因によることだと責任転嫁を煽っているようなこともしばしば経験します。 自国第一主義、移民の排斥など最終的にはよい方向に行かないのではないかとも心配します。

私達の幸せって何なのでしょう。日本やヨーロッパ、米国などで何故不幸と感じてしま人がこんなに多いのでしょう・・・もちろん全ての人々でもありませんし、満足しうるものでもない場合もあるのでしょうが、多くの方は最低限の衣食住が確保出来ているはずです・・・十分幸せなはずなのにそれ以上に不幸と感じてしまう人々が多いことは悲しいことです。

Th_ お金の基準や幸せの基準も相対的なものです。 他人と比べるから私達は不幸になっているのかも知れません。 お金は見えますが、お金持ちだから幸せではありませんし、幸せそうに見えても心の中は見えません。 戦争や災害以外では不幸は自分が作りだしているのです。

他人の幸せを喜べる人間になりたいです。ややもすると私も他人の不幸や不遇を喜ぶまでは行かないにしても、それをみて安堵していないか内省してしまいます。 

クリスマスの明るく賑やかな季節、自分だけがこの雰囲気に馴染めず孤独感を感じている人がいるかも知れません。 不安がそのようにさせているのかも知れません。 

不安はより自分を高めようとする心の叫びでもあるのです。 だから自分の心に呼びかけるのです「お前は大丈夫だよ」と。 生きている、だから大丈夫、何かあったら誰かが助けてくれる、だから大丈夫なのですheart04 Merry Christmas for you !


2018年12月19日 (水)

素敵なクリスマスプレゼントが届きました

ココログでもお馴染みの鳥取市で活躍するアトリエトトロさんから、素敵なプレゼントが届きました(トトロさんのココロブは→ http://atelier-totoro.tea-nifty.com/blog/  )。 童画家のトトロさんは、鳥取市で子供達のための絵画教室を主宰されています。 小さな子供さんから高校生まで通われているそうです。 トトロさんの暖かい人柄が子供達にも届いている素敵な教室です。   
昨年に続き、遠い沖縄の私達の病院までクリスマスのプレゼントを届けてくれました。 子供達の心温まる力作揃いですgood
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早速、職員に手伝ってもらい、1階の総合案内の近くに飾り付けをしました(明日はもう少し周りにクリスマスらしい飾り付けを追加したいと思います)。
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外来の患者さんや職員から「可愛い」とか「どんな子供達なのかね〜」、「上手だね〜」などの感想が聞こえてきました。師走の慌ただしいなかほっこりと致しますconfident
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このブログのお陰で、まだ会ったことのない鳥取市の絵画教室と繋がることが出来ています。人の縁とはありがたいことだと今更ながら感じさせてもらっていますlovely
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子供達の絵画から優しさが溢れ出しています。きっとこの子達は将来思いやりのある大人へと成長するのだろうと想像してしまいますheart04
Th__3 今年も素敵なクリスマスプレゼント、有り難うございます。遠い沖縄より鳥取市の子供達そしてトトロ先生にお礼申し上げます。本当にありがとうございますshine

2018年12月 9日 (日)

見下す

最近の国会での議論をみていると、質疑なんて時間を費やしたという既成事実を作っただけで結論(法案成立)は初めから決まっている。 何も調べなくても、新たなことが出てきても、もう既に決まったことなので「粛々と決定する」のが方針のようだ。                    
Th_banksy_slave_labour_mural_2012 入管法にしても、単なる労働力(機械)が入ってくるのではなく、血も涙もある様々な背景を持つ人間が入ってくる。  生活者としての彼らをどのようにして受け入れるかは、人手が足りなくてお願いするこちら(日本)が細かな施策を講じなければいけないことだと考えるのです。法案の中身もスカスカで何も分からず、何も解決出来ていない。 拙速に過ぎる法案成立には単に安く、使い捨てしやすい労働力を求めているとしか思えてならない。   

沖縄の基地の問題もしかり、時代が流れようが、戦力や地政学的な変化がある中で、公平や平等なんてどうでもいいことで、難儀なことより、力でねじ伏せた方がとってり早いと考えている。                  

・・・この国のトップの本質的な部分は何なのだろうと考えてしまう。 色々とある中で少し見えて来た部分、この本質は「見下す」ことではないかと・・・                                
言葉では「丁寧に審議を尽くす」とか「民に寄り添う」といっていても心ではあざ笑い「見下して」いると思う。「権力を持つものは自省し、より抑制的でならない」いずれの時代にも通じると思う。
 
海の向こうでも言いたい放題の大統領もいる。 大人で懐の広い政治家がいない。 我が儘な子供が世界を動かしている状況が怖いと感じてしまう。 良心を捨てて、なりふり構わず親分に従う奴隷根性の多さにも嫌気が差してしまう。
偶には気持ちの良い政治の話題でも書いてみたいと願う日曜日の朝なのですpout 

2018年10月28日 (日)

安田純平さんに対する自己責任論は見当違いでは?

安田純平氏の解放が23日の夜のニュースで突然入ってきました。よく生き延びてくれたと率直に思いました。 その時点で安田さん本人かどうかは確認中とのことでしたのでtwitterなどで情報があるかと見てみました。Th_b7588b02c86601d5c0c3526028415b12 そしたら、良かったという以上に、沢山の自己責任論、非難の書き込みがあり、違和感を感じを得ませんでした。
・いつもこの様なことがあると、すぐに自己責任論が出ます。この場合は自己責任には当てはまらないと考えます。
 まず第1に安田氏は自己責任論で非難する方のような「素人ではない」ことが重要です。 一般の方が興味本位で渡航禁止地区に入ったらもちろんお灸を添える必要があります。 彼は常に紛争を伝えてきたジャーナリストです。 紛争地帯は危険と隣り合わせですが、誰もそこに入って取材しなければ、何が起こっているかさえ分からないし、私達に伝わらないのです。 ネットで調べたり、衛星写真を見ても分からないのです。 その種のジャーナリストが世界中にいるために、私達は事実を知ることも可能だと考えるのです。
第2に、どのような理由にかかわらず、外務省、在外大使館などは全力で「邦人の生命・財産を保護する」組織ということ。 ですから自己責任論の以前の問題として、全力で救出する義務があります。  
Th_b03ca6e167b23c1b9fe9585d9a343da5 今回と関係ない事例で例えましょう。 海外のサーフポイントでサーフィンがしたい。特に台風が近づいたのでビックウェーブが期待できると遊泳禁止の海に出かけ遭難したとします。あるいは海外で悪巧みのために出かけて、その国で行方不明になったとしても、邦人の救出のために現地の日本大使館は全力で捜索をするのです。 そして救出出来たら、その経緯などを聞いて処分が必要ならその時点で行えばいいことなのです。 まず救出、命を救うことが先なのです。
・それとSNSなどで目についたことに「一体どれだけ皆に(心配ではなく)迷惑かけたのか」「一体どれだけ日本のお金がかかったのかと」いう発信でした・・・滑稽に思えたのは、これまで安田氏の為に何もしていないであろう人達にとって「本当にどれだけ迷惑がかかったの?」という話。 あなたに取って実際何が迷惑だったのか、どれだけ金を支払ったのかと言うことになります。
これらのことより私はこの種の問題に関しては「自己責任論」は宛てはまらないと考えるのです。安田さんも命を賭けて現場に向かったと考えます。 何もみすみす捕まりにいったわけでもないと思います。同じ様に捕まった後藤健二さんは無残にも殺害されました。 もちろん偶然や幸運もあったかも知れませんが、この様な環境下で長期間、耐え抜いた安田純平さんは凄い方だと思いますし、生きていてくれてありがたいと素直に思うのです。私は弱虫ですので、耐えきれないと考えるからです。
ただし、彼を英雄視している訳ではありません。捕まったのですから何処かにミスがあったわけで英雄ではないと思うのです。
・今後、拉致された状況などを正確に報告して貰い、現場の状況を伝える責務があると思います。その結果で対策が不十分だったらジャーナリストとして軽率だったと非難されるべきと思うのです。

2018年7月29日 (日)

人間の価値と生産性

嫌な世の中だと思うことがまたあった。ある馬鹿げた議員が「LGBTは生産性のない」との発言。 生産性から人間の価値を決めつけるような発言。 2年前に起きた「津久井やまゆり園」のことが思い出され(その時のブログ→http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-26a7.html )、優性思想に繋がる日本での優生保護法、さらにはナチスの思想にも繋がる一連の発想。                            Th_img_1274       

人の価値ってなんだろう? 人の見方も感じ方も多様だし、人間の価値ってある1つの基準では決めることの出来ない多様な意味を持っていると考えるのです。                                 

私達人間は多種多様性の中で、いつも偶然というファクターを含んで生きています。私はもしかしたらあなたのように成れたかも知れないし、成ったのかも知れないのです。 他人に起こることは自分にも起こり得ることなのです。

自分以外を排除する思想は自分を排除する思想と一緒であることに気がつかないといけないと思うのです。                               
Th_dsc06940 このような方々の発言や行為はアウシュビッツで見た光景と重なってきます。列車から降りた人々をナチの係官が一瞬見ただけで「使えるか使えないかで」収容者をガス室に送るか否かを決たことと同じことだと(→http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/65-5983.html )。                        
人は様々です。1つの事柄で優越などつけられません。他人を認めることは自分を認めることです。人は生きているだけで素晴らしいのです。そんな当たり前のことをまず個人としても社会としても再確認する必要があると思うのです。                
何かを取り上げて人間の価値を決めるような偏狭な人間に人の価値を語る資格などないと怒りを覚えた日曜日の朝でした。                                 

2018年6月23日 (土)

沖縄慰霊の日に;平和って何だろう

今日6月23日は73年目の「慰霊の日」です。沖縄県では太平洋戦争末期の沖縄で組織的戦闘が終了した日を「慰霊の日」定めています。

Th_01ad3c5daacacc0a43cc18fd58fa7588 沖縄では悲惨な地上戦が行われ、非戦闘員が多数巻きこまれて犠牲となりました(以前のブログにも記載しましたhttp://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-e44a.html )。

私にとっては学校の校長をしていたお祖父さん、県立中学生だった二人の叔父さんが犠牲となった戦争でした。

徴兵され戦後満州から引き揚げて来た父の無念はいかばかりだったかと想像します。

ただ平和を考える時、今の世界をみてみると戦争状態でないことが平和ということなのだろうかと考えてしまいます。

おそらく平和の究極の反対は戦争であろうと考えます。 しかし生活が保障されず不安定な状態や恐喝されたり、いじめを受けている場合は戦争ではなくても平和なのでしょうか?

行き過ぎた格差の中で生きている底辺の人々にとっては平和な世界なのだろうか? 正義が脅かされ、自由を制限される中で生きることは平和なのだろうか?

一昨年旅行で訪ねたアウシュビッツでみた光景。その時代に迫害されたユダヤ人が平和を求めて作ったイスラエルという国。しかしその人々がパレスチナ人を迫害する世界。

虐待されて死んでいった子供達、いわれのない差別の中で生きて来た人々。

何故、人はもっと優しくなれないのだろう。「それが人間だよと」言われても、やはりもっと幸せになりたい、もっと幸せになって欲しいと祈るのです。 

「慰霊の日」に人が寛容で慈悲深いならば、本当の平和が人々に訪れるのではないだろうかと想像するのです。 今日はゆっくりと祈りを捧げたいです。

2018年6月 9日 (土)

目黒虐待児の反省文:私達へのメッセージ

目黒虐待児の反省文に関して心が痛くて、眠れない日が続いています。やっと覚えたひらがらで懸命に書いた文書。その言葉ひとつひとつが子供が書く文書、子供が経験すべきことではないと・・・・                                 
「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」                 
この文が公表されてから寝ようとすると、この子の書いた幼い文字が浮かんで来るのです。胸がちぎれそうな痛みを覚えるのです。                           
Th_4551cc79141c80b99b69d123ba54bf1d 実は日本で虐待死の子供は毎年50人もいるのです。でもその子らは結愛ちゃんのように悲痛な言葉を残さなかった(残しても捨てられたのかも知れません)ために、私達も痛みに感じても他人事のように直ぐに忘れてしまうのです。                             
今思うと、この子は自分と同じ様に命を奪われた子供達のために書き残したのではないかと考えてしまうのです。                                 
子供を大人、社会が守らなくて、いったい誰が守るのでしょう。この子供が書き残した文書は私達への命を賭けた最後のメッセージなのです。                                                  
子供を守ること、親を孤立させないないことなど、やるべきことが沢山あります。親のせい、児童相談所のせい、その他の行政のせい・・・多くは防ぐことが出来たのかも知れないのです。 防ぐことが出来なかったのは誰のせいでもなく私達の無関心のせいなのです。
 
マザー・テレサの有名な言葉に「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」と説いています。                                               
子供が子供らしく生きてゆく社会を私達は少しの忍耐と犠牲を払ってでも構築する必要があると思うのです。

2018年6月 1日 (金)

国民栄誉賞は年齢制限をつけてもいいのでは

国民栄誉賞の受賞者がこの2〜3年一気に増えた感じがあります。それ程、多数の優秀な人材が活躍したことでしょうから素晴らしいことだと思います。

私自身はこれまでに老若男女を問わずに尊敬出来る方は差別なく立派な方々だと思っていました。 当然、私自身も国民栄誉賞を取る方はそれだけの価値のある実績を積み上げているからだと考えています。

これを書いたら皆にパッシングを受けるかも知れませんが、私はある程度の年齢になってから、「国民栄誉賞」は差し上げていいのではと考えています。若い方には「国民栄誉賞」と言う名前自体が重りになると考えるのです。

Th_ スポーツや囲碁・将棋などのいわゆる勝負の世界で子供の頃から戦って来た人間です。この一点の世界では世界的に素晴らしい方々です。 しかし実社会やそれ以外の関係では逆に経験不足で未熟な部分も多く残していると考えるのです。

今や高齢化社会でもあり、国民栄誉賞を頂いた年月より実はその後の人生の方がずっと長いと考えます。 あまりにも若くしてこの様な栄誉ある賞を貰うことで、その後の人生の負担にならないかが心配なのです。

若者らしく、自由に生きて行けないのではないか、時には世間の目から逃れたい時期もあるのではないのかと思うのです。自由に恋愛もしたいのではないかと・・

もしも若い時の実績が十分ならば、その方がもう少し大人になってから差し上げてもいいのではないかと思うのです。 

どうしてもなら今回の羽生選手のような方なら、「国民フィギュアスケート大賞」などの違う名称でも良いのではないかと考えてしまうのです。そして彼が今後現役を退いてもなお指導者などとしてフィギュアスケート界の発展に寄与したと言うことで「国民栄誉賞」でも良いのではないかと思うのです。

折角の羽生選手の素晴らしい受賞の喜びに対して水を差すようで申し訳ありません。皆様方はどう思われるのでしょう?

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