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2017年9月 8日 (金)

世界を夢みて 60 : ワルシャワ市内観光No2

前回のワルシャワ市内観光の続きです。これまでの旅行記に写真を多く入れるとすぐに量が多くなってしまうために、分けて載せています。

ワルシャワ市民がこよなく愛しているショパン関連以外の観光を先にご紹介します。前回紹介したワルシャワ市民には不人気の文化科学宮殿から東のヴィスワ川に向かった辺りが新市街地区、更に奥が旧市街地域となります。特に多くの建物は第二次世界大戦時にナチスにより徹底的に街が破壊されますが、ワルシャワ市民の情熱で復興を成し遂げます。

新市街地区の中央には幅が50mもある大通りがあり、両サイドに高さを揃えた建物が並んで建てられています。レストランやカフェ、有名ブランドショップも並びますが、歴史的な教会や大学などもある、賑やで開放的な通りとなっています。

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南側でマルシャウコフスカ通りからクラクフ郊外通りと名前を変える辺りに、コペルニクスの像が建っています。

25年前に立てられた時には周りが工事中ではなかったのですが、今回は周りの建物が工事中でコペルニクス像が上手く撮りにくい状況でした。1473年生まれのコペルニクスはクラクフ大学で天文学を学んだ後イタリアのボローニャ大学に留学し法律を学び、再度故郷のポーランドで司教となります。有名な地動説を研究しますが、天動説を唱える教会とは相容れない考え方で、彼は地動説を唱えた書「天体の回転について」の発表を死の直前で発表します。そのため彼自身は迫害は受けずに済んだのです。しかしその1世紀後のガリレオ・ガリレイは地動説を曲げずに宗教裁判で処刑されるのです・・ガリレイはちょっと可哀想ですweep

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コペルニクス像のすぐ近くにショパンの心臓を祀った聖十字架教会があります。

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そこから3分ほど歩くとワルシャワ大学があります。1810年創立の総合大学です。25年前にこの場所で写真を撮ったのですが、今と違い髪がふさふさで我ながら月日の流れを感じてしまいましたweep

今回はガイドさんがワルシャワ大学の出身で今でも関連があるとのことで、大学の校内にも入ることが出来ました。中では新学期に向けてのレセプションの準備などを行っていました。売店もあり、ワルシャワ大学のネーム入りのシャツなども購入可能のようです。やはりこの大学もドイツとの抵抗運動の場所でもあったため、ワルシャワ蜂起や教育禁止令により63人の教授が犠牲となり、キャンバスも60%が破壊され、さらに大学の所蔵資料も80%が燃やされたりドイツに持ち去られ、その後戻ることはなかったと言われています。

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暫く歩くと大統領官邸がみえて来ます。入り口にはポーランドの英雄ユーゼフ・ポニャトフスキ像が立っています。

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そこから大通りを旧王宮に向かうと、ため息が出そうな程綺麗な王宮広場があります。中央に立つとどこから写真を撮っても綺麗と思える景色があり、多くの観光客が集っている場所でもあります。

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広場の中央には1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジブムント三世の碑が建てられています。周囲は旧王宮、洗礼者ヨハネ大聖堂などの建物が整然と建っています。

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王宮広場を少し下ってゆくと、これもナチスにより徹底的に破壊された旧市街広場に出ます。丁度ワルシャワ旧市街の中心地の部分となり、四方が四角い色とりどりの建物に囲まれ、多くの民芸品店やレストランなどが軒を並べています。

広場には椅子が並べられ、観光客が座ってくつろいでいます。
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広場の真ん中にはワルシャワ市の紋章となっている「人魚像」があります。コペンハーゲンの可愛らしい人魚像と違い、この人魚像は楯と剣を持って筋骨たくましい人魚さんです。シッポの形も竜の様な感じです。昔話で、人魚がヴィスワ川の漁村のワルシャワを気に入り住み着きますが、最初は悪戯好きで漁民の網を破ったりしたそうですが、容姿も唄声も綺麗で次第に漁民達も人魚を受け入れます。しかし彼女を見せ物の商売に使用とした商人が罠を仕掛け、人魚を捕らえるのですが、それを聞きつけた漁民が彼女を助けます。それに感謝し、人魚は剣と楯でワルシャワを守ることを誓ったそうです。そのためにワルシャワの紋章となったそうです。道理で可愛い人魚さんではなくて勇猛果敢な感じを受けるわけです。

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25年前の写真を見返すと、同じ様な人魚像がどう見ても旧市街広場ではないところ(城壁の近くでしょうか?)にあるのです。 そう思い色々な本を見てみると、なんとワルシャワ中心地にもう一つあるとのことでホッとしました。 25年の間に人魚姫が自分で移動したのかと思いました・・coldsweats02

ところがそれだけでなく、その時の旅行で買ったポストカードを見ると、旧市街広場の人魚像がないではないですか・・・Why?

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上のポストカードの中に人魚像がいない、やはり時々川に泳ぎに出かけているのでしょうか?・・・・この疑問も調べてみると、途中像の修復期間があったようで、上の写真は人魚像が修復に出された時の写真ではないかと想像しました。ワルシャワの守り神なのですから夜な夜な遊びに行っていてはこまりますhappy01

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ここから暫く歩くとかつての二重で出来た城壁の通り抜けてゆくと、旧市街から新市街地となります。

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あまり目立たないのですが、キューリーの生家があり、現在は博物館として研究資料や写真などが展示されています。彼女はパリ大学へ進学し、そこでの研究で、世界で唯一ノーベル物理学賞(1903年)とノーベル化学賞(1911年)の2部門で受賞した方です。彼女もやはりボーランド市民が尊敬する方でもあります。

次回はポーランドで一番愛されたショパンについて書いて見たいと思います。

2017年9月 3日 (日)

世界を夢みて 59 : ワルシャワ市内観光No1

ポーランドの首都ワルシャワは歴史、文化、音楽、教養が溢れる文化都市でした。25年前と比べても更に近代都市と変貌していると感じました。
今回はリトアニアからバスで入国したのですが、ワルシャワ・ショパン空港やワルシャワ中央駅から入って来る旅人も多いと思います。
夜、ワルシャワのホテルに着いたのですが、いつものように寸暇を惜しんで、夜の街の散策へ。もちろんこんな時にはリスクを避けるために人通りの多い所しか歩きませんが・・・

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ワルシャワ中央駅の夜景です。光が美しく、構内も清潔で綺麗でした。このワルシャワ中央駅と近く文化科学宮殿の辺りが1番賑やかな所で、大きな近代的なホテルやビジネス街もこの辺りに集中しています。モダンな場所です。

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ワルシャワ駅に隣接するバスターミナルです。ここも光が綺麗でした。 

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お店は閉まっていましたが、酔っ払いに気をつけながらウインドウショッピングです

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右奥の茶色い部分がワルシャワ旧市街地で右手前が新市街地となります。

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反対側には高いホテルやビジネスビルが並びます。この写真からでもワルシャワって広いということが分かって頂けると思います。

さて、上の写真はどこから撮ったと思いますか?、ワルシャワ市民がジョークでここからが1番美しい眺めだと言っています。何故かって・・・それはこの場所で見れば、この建物(下)を観ないで済むからだと言うことなのですが・・・・⤵

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→実は、上の写真は、悪名高き(笑)文化科学宮殿の一番上の展望台からの写真だったため、この宮殿をみなくて済むというポーランド人らしい話しです。この建物はスターリンによってソビエト連邦からポーランド人民への贈り物として1955年に完成します。高さ237メートル、42階立てで、尖塔の高さが49m、部屋数3288室とワルシャワのシンボルタワーですが、当時の名前はヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿の名称でした。ソビエト支配に快く思わない多くの市民にとっては、この建物は支配の象徴だったのです。そのためにこの建物自体が見えない展望台からの眺めがワルシャワの一番いい景色だと揶揄したのです。 

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今ではスターリンの名前は省かれ、文化科学宮殿となっています。展望台には夏季は20時、冬季は18時まで開いています。エレベーター近くの案内所で20ztで購入出来ますが、結構混んでいました。更に私が乗ろうとした時に団体客が入って来たために15分ほど待たされました。乗りたい方は時間の余裕をみて昇って下さいね。

幾つか写真を撮ってホテルに戻り明日からの市内観光に備えました。一気にワルシャワ市内観光を書き終わろうと思ったのですが、写真が多く見所も沢山したので、ワルシャワ市内観光を続けて書きたいと思います。飽きずにご覧下さいね

2017年8月13日 (日)

世界を夢みて 58 : 驚異的な復興を果たしたワルシャワ

バルト三国を終え久しぶりのポーランドに入国です 。

私が始めて訪れた25年前はまだソビエトの支配から解放されてまだ日が浅く、混乱状態だったのかもしれません。それでも戦後のワルシャワの街の復興には驚嘆するばかりでした。

私は当時東ヨーロッパは経済的にも文化的にも低いと考えていました。しかしポーランドは当時すでにノーベル文学賞が4人いて、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を同時に受賞したキューリーが生まれた場所、更にショパンが半生を送った場所だったのです。15世紀はクラクフ大学出身だったコペルニクスが地動説を唱えて科学的な学問の都だったのです。日本では室町時代から戦国時代にかけてになります。

Dsc05942 ポーランドの首都ワルシャワはヴィワス川沿いの小さな街が次第に工業と商業が発展してゆき、16世紀にクラクフから首都が移り急速に発展します。一時期、リトアニア・ポーランド共和国としてヨーロッパ最大の国家として繁栄します。沢山の宮殿や街並みが整理され、本当に美しい町となって行きます。

しかし、この街に最悪の悲劇が訪れます。第二次世界大戦末期の1944年にナチスドイツに対するワルシャワ蜂起が失敗し、その報復のためにこの美しい町は徹底的に破壊されてしまうのです。その状況を映画の「戦場のピアニスト」の最後のシーンで再現されています。皆様方ももしまだ見ていなければ映画そのものも良質な映画と思いますので、ワルシャワの状態を思い浮かべて観て頂ければ嬉しいです。

あれ程破壊された街をワルシャワの市民は「ひびの1本にいたるまで」をスローガンに忠実に街を復元して、元の美しいワルシャワを取り戻していました。四半世紀前に私がワルシャワの街を歩いた時に、戦後の破壊された写真と現実に自分が歩いているこの街の姿に、人々の思いが伝わり心が震えたのを覚えています。

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街角にあった破壊された旧市街の写真です。

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人々が集う旧市街の中心地。戦争より皆が集う広場がやはりいいです。

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人々の思いにより復元されたワルシャワ旧市街、どれほどの情熱を注いだのでしょうか。1980年に世界遺産となりました。不屈な人々が暮らす街です。

2017年7月23日 (日)

世界を夢みて 57:リトアニアの第2の都市カウナス

朝早くリトアニアの第2の都市カウナスの杉原千畝記念館(旧日本領事館)を訪問(http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/56-e6bc.html )後、午前の僅かな時間でカウナスの旧市内観光を行いました。

カウナスは13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために、カウナス城と城壁が築かれた町で、15世紀半ばにはハンザ同盟の代表部が設けられて商業都市として発展します。第一次大戦から第二次大戦の間はポーランドによってヴィルニュスが占領されたため、カウナスがリトアニアの首都として暫く機能していました。

私達は旧市街の南側でバスをおり、暫く徒歩での散策となりました。木々も多く広々として心地よい風が通り抜ける街でした。

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バスを降りて直ぐの所に、15世紀にゴシック様式の建物があります。ここはかつては商人の館として使われていましたが、以前この場所は「雷神ペルクーナスを祀る神殿」があったと言い伝えられていた所です。19世紀の修復の際に、30Cm大のブロンズ像が見つかり、言い伝えは正しかったとの論争が巻き起こるのですが、残念ながらこのブロンズ像は消失してしまったとのことでした。

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暫くすると大きな市庁舎広場に出ました。旧市街の中心部で、周りにゴシック形式の博物館やギャラリー、教会が建ち、その中心部に旧市庁舎があります。 旧市庁舎は白鳥に例えられる綺麗な16世紀のバロック形式の建物です。現在は結婚登記所となっているとのことです。確かに美しい建物で、多くの方が記念写真を撮っていました。

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広場を曲がった直ぐに、これも綺麗な15世紀の赤煉瓦づくりの聖ペテロ&パウロ(ベトロイルポヴィロ)大聖堂が見えて来ます。第二次大戦で破壊されしまいましたが完全に修復されています。現在はリトアニアのカトリック司教座聖堂となっている教会です。

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ここは外観よりも内部の美しい教会でした。フレスコ画や彫刻、ステンドガラスが美しく、祭壇は特に荘厳で綺麗でした。

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静かに花を手向ける方がいました。とても静寂な世界です。この様な静寂さが好きで、暫くこの場所にいたいぐらいでしたconfident

教会を出ると、これから結婚式を挙げる花嫁さんやこの友人やご家族がにこやかに準備をされていて、写真を撮らせて貰いました(顔がはっきり分かるためブログに載せる事は出来ませんが、綺麗な花嫁さんでした)。結婚式でも配るのでしょうか?花嫁の父からカゴに入ったお菓子を私も頂きました(ありがとう!、お幸せにheart04

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広々とした通りを歩くと、以前のカウナス城の塔と城壁の一部をみることが出来ます。カウナス城は元々台形の城壁で囲まれ、4つの塔を持っていたそうですが、今ではこの僅かな部分が残っているのみでした。

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お昼は近くのレストランで、リトアニアの郷土料理の「ツェペリナイ」を頂きました。ツェペリナイはモチモチした厚めのジャガイモで出来た皮の中に、豚肉などの詰め物を茹でる料理で、この皮を創るのに時間がかかるようです。確かにモチモチして美味しい料理でした。

もう少しノンビリしたかったのですが、腹一杯になった後は6時間かけてポーランドのワルシャワへと向かうのでした。いよいよリトアニアそしてバルト三国ともお別れです。

2017年7月 2日 (日)

世界を夢みて 56 :杉原千畝(苦悩と決断)

バルト三国に行ってみたい1つの理由が杉原千畝記念館(旧領事館)訪問にありました。

地球で1番怖いのが人だし、1番優しいのも人だと思います。その恐怖の最たるものが戦争とそれに付随する差別や偏見、暴力です。しかしこの狂気の世界であっても救う人がいたことに感銘を受けます。 映画の「シンドラーのリスト」にもなったシンドラーについてはよく知っていても、20年前までは私自身は杉原千畝さんのことを殆ど知りませんでした。

Th_dsc05420 日本でも最近、杉原千畝さんが本や映画などで話題になり、私も改めて杉原千畝さんに関心を持ちました。

ロシア語が堪能だった彼はソビエトに近いリトアニアの領事代理として家族と共に赴任します。初めはリトアニアの首都のヴィルニスに領事館はあるも戦況が緊迫する中で、カウナスの日本領事館に移動します。日本はドイツ、イタリアと同盟関係でしたが、ドイツにおいてはユダヤ人の虐殺が始まっていました。ユダヤ人というだけでドイツの占領下にいることは虐殺される状況に追い込めれていたのです。

1940年7月の朝、突然多くのユダヤ人がカウナスの日本領事館に殺到します。彼らは日本への通過ビザを求めて押し寄せたのです。これがあればソビエトを経由して日本に行け、その後、アメリカなどの第三国に亡命することが出来たのです。彼らにとっては命のビザだったのです。

当然、杉原千畝さんは日本の外交官です。ビザを認めることは同盟国ドイツに敵対する行為となります。分かっていても、杉原千畝は、日本政府にビザ発給の許可の電報を打ち続けます。しかしその都度「否」とされます。

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戦況が緊迫する中で、杉原千畝さんもリトアニアの日本大使館を出国しなければならなくなり、その日が刻々と迫って来ます。大使館員としての使命、しかし目の前にいる罪もない人々の命が自分の手に委ねられていることへの苦悩と葛藤はどれ程のものであったかと想像されます(・・・それを探りたくてこの場所を訪れたのです)。

出国期限が近づく中で杉原千畝は決断します。「私を頼ってくれる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背くと・・・」 。その決断後の半月は昼夜を分かたず、ペンが折れ、手が動かなくなるまで書き続け、リトアニアを脱出する電車の中でも書き続けたそうです。

発行されたビザの数は1600人分、その家族も一緒に通過出来るために最終的にユダヤ人5〜6000人が彼のお陰で命を救われたのでした。まさに「命のビザ」を信念に基づいて書いたのです。

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終戦時、杉原一家はブカレストの大使館でソビエト軍に身柄を拘束され、その後命からがら日本に帰国します。当然、彼は日本のお上に楯突いてこのような行動をしたのですから、外務省も叱咤し退官に追い込ませます。戦後しばらくは彼の名誉回復はならず、外交官としての資料も殆ど廃棄されてしまっていました。

彼の名誉回復を計ってくれたのは、私達日本人ではなくて、彼が救ったユダヤ人達だったのです。カウナスで命のビザを受けた方が、新生イスラエル国の外交官となり、更に多くのユダヤ人達が杉原を戦後捜したのです。しかし「外務省の返答は」このような外交官はいないと、誠実には捜してくれなかったのです(彼の呼び方が日本語どおりでなかったのもありましたが)。

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命を救われたユダヤ人達はその後も熱心に命の恩人を捜し続け、やっと外務省と杉原との公式電文を入手し、杉原千畝を探し当てます。その時もユダヤ人社会はなぜ杉原千畝の名誉回復を日本政府が行わないのか疑問を投げかけています。

1985年(昭和60年)イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救った功績にて、杉原千畝さんは日本人では唯一「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞することが出来たのです。

日本国政府による公式な名誉回復は彼が亡くなって14年経った、2000年10月10日でした。

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ヴィルニスには、彼の功績をたたえ、「スギハラ通り」と命名された通りができ、生誕100年を期に日本の桜が植樹され、2001年に彼が在籍した早稲田大学の手によって「杉原千畝記念碑」が建てられています。

もう一度自分がこのような状況になった時に、どのような決断ができるのだろうか? 千畝さんのように逃げずにやれるのだろうかと自問する旅でもありました。

2017年6月21日 (水)

世界を夢見て 55 : 聖ペテロ&パウロ教会

リトアニアの首都ヴィリニュスを散策すると教会の数の多さそれもそれぞれが個性があり美しい教会の多さには驚嘆してしまいます。

歴史的にみると1323年からローマカットリックの影響が強い都市だったようで、熱心なカトリック教信者の多い町だったようです。旧市街の歩いて散策出来るだけでも、ヴィルニュス大聖堂、ヴィルニュス大学の中の聖ヨハネ教会、聖イグナトス教会、聖キャサリーン教会、聖霊教会、フランシスコ教会、ペルナルディン教会、聖ミカエル教会、聖カジミエル教会、聖テレサ教会などを外観だけなら半日で見ることが可能です。

Th_dsc04859_2 今回は旧市街から少し離れた場所(徒歩で30分程度)にある聖ペテロ&パウロ教会を紹介したいと思います。多くの観光客が訪れる場所です。外観は黄色くて優しい感じで、ヨーロッパでよく見かける様な教会です。その外観と違うのは、内部の真っ白な漆喰装飾です。眩しいほど荘厳で素晴らしいのが特色です。これほど真っ白な教会は数多くあるヨーロッパの教会でも突出しているのかも知れません。 この教会はリトアニアバロックの真珠とも言われ、最も傑出した建築様式の教会であるとたたえられています。建物だけで10年、内装に30年かかったといわれるまさに圧巻の内部彫刻群を見ることが出来ます。

17世紀にパツァス(Pacas)という将軍貴族が自分が行って来た贖罪のために建てたということで、教会の入口の壁には「ここに罪人眠る」と書かれた彼の墓石があり、地下礼拝堂には彼のお墓があります。

わざわざイタリアから職人を招いて建設され、内部の天井は高く、壁から天井まで覆い尽くすように2000以上の漆喰彫刻が施され、どれも同じものはないとのことです。意匠は多種多様で聖人、天使、想像上の獣、植物など多彩で、沢山の職人が想像を働かせ作ったといわれています。

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側面からキューポラ、天井まで数え切れない彫刻で埋め尽くされています。

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奥に祭壇がありました

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中央のクーポラの部分より吊された金属で作られた帆船が印象的でした? なぜこんなものがと思ったのですが、これはキャンドル立て(シャンデリア)となるそうです。水鳥をモチーフにしたのかとも思ったのですが、帆や錨も付いていますので帆船で間違いないようです。それは聖ペテロが元々漁夫だったことに関係しているからだそうですよ。

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内部の白さと彫刻の多さに圧倒されながらしばらく感嘆に耽っていました。地球の歩き方という本の中に紹介されていましたので、これも載せておきましょう。当時の制作者達の個人的なことも見えてくるようで面白いです。

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この聖ウルスラのチャペルには四隅に4人の聖女の像が彫られているのですが、薬瓶を持った聖マリア・マグダレナ(→)だけは当時の衣装を身につけて彫刻されています(他の三人は古典的な衣装です)。これは彫刻家の1人が自分の奥さんをモデルにして作成したからといわれています。奥さんを愛していたのですねheart04 二人は死んでも、二人の愛はこの教会で生き続けているのですね

2017年6月11日 (日)

世界を夢みて 54 : バルト三国の自由への願い 人間の鎖

今回の旅行記は昨年出かけた、フィンランド〜バルト三国〜ポーランドについて特に今回初めて出かけたバルト三国の記事を主に書いています。

多くの日本人はバルト三国とひっくるめて考えてしまうと思うのですが、エストニア、ラドビア、リトアニアの国々はそれぞれ民族も言葉も習慣も違う独立国家です。三カ国をまとめてしまう理由の1つに、戦後ソビエト連邦から三国がまとまって自由を獲得するために連携して独立したことにあると考えます。

歴史的にみてバルト三国はスカンジナビア半島の国々、ソビエト(ロシア)、ポーランド、ドイツなどの大きな国々の干渉を受けて来ました。

Th_2016_2 特に第二次世界大戦中はナチスドイツに占領され、大戦後はソ連邦に編入され、独自の文化を制限されてしまいます。 それぞれが持っていた文化や言葉も制限されて、人々の中には自由への憧れや独立心が芽生えます。 しかしスターリンの強権政治に支配されて続け、反対派は極刑やシベリア追放とされました。

しかし、バルト三国の人々は怯むことはありませんでした。

エストニアでは「歌」によって戦いました。エストニアでは母国語が禁止となるのですが、歌だけは母国語で唄うことを許されたいました。そのためエストニアでは独立への思いを表現するために「歌(と踊り)の祭典」を始めて行きます。1969年より開催され、次第に民族高揚運動の場となり5年に1度の祭典は規模を大きくします。1988年には全国各地から30万人以上が会場に集まり、3万人以上のエストニア人歌手が独立への願いを込めてエストニア語で唄ったのです(当時の全人口の3人に1人以上が参加)。

Th_ ラトビアでは1980年代、もっとも早くからソビエトからの独立運動が展開され、1988年にはラトビア独立戦線が結成されます。ソビエトとの武力衝突も起こります。流血事件の後も怯むことなく独立に向ける運動は日に日に高まりました。

そしてリトアニアでは、十字架の丘でも紹介したように(http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/47-2477.html )、ソビエトの戦車により十字架がなぎ倒されても、直ぐに人々が十字架を持ち寄り立て直して行ったのです。

折しも、1985年にゴルバチョフがソ連共産党第1書記になり、ペレストロイカが始まると更に、バルトの国の人々も独立の機運が高まって来ます。

Th_dsc04964 巨大なソ連邦と立ち向かう為に、民族も言語も異なるバルトの小国は独立のために手を取り合って連携して立ち向かう行動を取ります。それぞれの国々で運動が組織化されて、秘密裏に世界に向けて行動を起こします。これが1989年8月23日に決行された「人間の鎖」だったのです。(「人間の鎖」は2007年ユネスコの世界記憶遺産に登録)

リトアニアの首都ビリニュスから、ラトビアの首都リーガを経て、更にエストニアの首都タリンまでの600Kmを200万人以上の人々が手を結び、連携して独立への思いを世界に示したのです。
その後三国は同時に 独立を果たします。この様なことがあったために、私達の記憶の中でも戦後の教科書の中でもバルト三国とひっくるめて表現されるようになったのかもしれません。

Th_私の泊まったホテルの目の前がヴィルニュス大聖堂でした。その棟楼前に余り目立ちませんが、人の足形をしたプレートが差し込まれています。これは1989年の人間の鎖の始点になった場所を示すためのプレートです。もしここを訪ねるのなら捜してみて下さいね。

もう一つこの広場には「奇跡」とリトアニア語で書かれたプレートもあります。これを起点に三回回ったら願い事が叶うと信じられています。 ミラノのアーケードの雄牛のモザイク画のプレートも同じ様に三回回ると願いが叶うなどがありました。その様な場所が沢山あるのでしょうね。 ここはミラノと違い人だかりは出来ていませんが、大聖堂の広場の前でぐるぐる回る人がいたらそのプレートが見つかるはずですよ。捜して下さいね

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人間はどの時代、どの国だろうと愛と自由を常に追い求めているのかも知れません。私はこのプレートの上に立った時、このことを考えてしまいました。

2017年5月28日 (日)

世界を夢見て 53 :ヴィリニュスの街並みと教会群

リトアニアの首都ヴィリニュスを散策すると教会の数の多さそれもそれぞれが個性があり美しい教会の多さには驚嘆してしまいます。

歴史的にみると1323年からローマカットリックの影響が強い都市だったようで、熱心なカトリック教信者の多い町だったようです。何キロ四方の中に、ヴィルニュス大聖堂、ヴィルニュス大学の中の聖ヨハネ教会、聖イグナトス教会、聖キャサリーン教会、聖霊教会、フランシスコ教会、ペルナルディン教会、聖ミカエル教会、聖カジミエル教会、聖テレサ教会などなど沢山あります

そして街並みが美しく、ホテルに着いても何時もながら直ぐに、街の散策に出かけました。 昼と夜では印象も違いますが、本当に綺麗な街は昼も夜も美しく、楽しめます。これもバルト三国がヨーロッパの中では治安がいいからできることでしょうが・・・

今回は少し写真を多めに出してみます。まずは夜の街から

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こんな所で飲むコーヒーは格別です

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昼は昼で美しい街並みです

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街を歩きながら、この街の美しさへの配慮も分かって来ます。

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上の写真の中でパネルのような壁面にヴィルニスの綺麗な写真が飾られていました。

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観光案内図かと思いながら、歩き進め奥の広場に入ると、何とこれはボックス型の露店の壁に綺麗な写真が貼ってあることに気づきました。ちょうどこの四方形のボックスを広げて開店の準備をしている方がおり、10分程度でセッティングが終わり、可愛らしいお土産品店に早変わりしていました。閉店後はこのボックスが町の綺麗な写真の展示物となって、通り過ぎる人々の目を楽しませていましたheart04 こんな工夫もあり街が美しいわけです。

私が旅行に出る時に、多くの街をなるべく徒歩で歩くことにしています、歩きながら本当に楽しいですし、沢山の発見があります。風景も建物も人も観察するのに超多忙ですcoldsweats01

家々のドアや看板なども実に楽しいものがいっぱいです。

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ユニークな看板が外に飛び出しています。

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バブ?のドアのオブジェ

街を歩くと沢山の教会があります。ここにも人のぬくもりを感じたり出来ます。

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この街では色々な年代の建築様式を同時に観察出来るのも魅力です。

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私が訪れたのは9月ですが、しばらくすると寒くなります。そんな折、ヴィルニスの人々の優しさなのか、ユーモアなのか木にマフラーが巻かれるそうです。木も暖かくなるばかりか、見ている私の方もホンワカとなってしまいましたthink

教会のことをもっと書こうとしたのですが、沢山の教会がありすぎて今回はこれまでいっぱいでした。まだ紹介したい教会もあるのですが・・・次回書けますでしょうか?

2017年5月17日 (水)

世界を夢みて 52 : トラカイ城

リトアニアのヴィルニスの郊外に、30以上の湖と森に囲まれた景勝地があります。そのなかで北側に突出した半島が昔からの中心地で、その半島を橋で渡り一番奥にある島に有名な赤煉瓦作りのトラカイ(トゥラカイ)城が建っています。今ではリトアニアの有名な観光地となっています。

このトラカイはヴィリニュスに首都が移る前はリトアニアの首都がおかれた場所で、ヴィルニュスから車で40〜50分ぐらいの距離があり、多くの観光客で賑わっていました。バスを降りて、真っ直ぐに伸びた道を歩くと、綺麗な湖と対岸の美しい森の緑が飛び込んできます。心なしか空気も美味しく感じられます。

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観光案内所や教会、湖を眺めながら食事が取れる飲食店や観光客相手の露天などが並ぶ場所を通ってゆくと、奥に湖を挟んで、青い水面から浮かんでくる赤煉瓦づくりのトラカイ城が見えてきます。 湖と空とこのお城の眺めは心が震えるほどの絶景でした。暫く岸辺からこの景色を眺めていました。透き通る水の中で睡蓮が咲いて、水鳥が楽しそうに泳いでします。ヴィリニュスの旧市街地とはまるで違うリトアニアの魅力です。

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トラカイ城は14世紀後半にチュートン騎士団の侵略から守るために立てられた城でしたが、その後この城の権力がポーランド側に移ると廃墟となってしまったそうです。その後1961年から本格的な修復が始まり27年程かけて、元の15世紀当時の姿に復元されています。

半島から湖にかかった橋を渡り、更に小さな島を通り、更にトラカイ城のある島へ橋を渡って到着します。今回はこの部分の橋が工事中で、ガイドブックに載っているような、橋を入れたトラカイ城の正面の写真は撮れませんでした。それでも十分美しいお城です。

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ゲートをくぐり城の内部に入ると、広い広場が広がり,奥に本丸、横に二層の建物が連なっていて、現在は博物館となっています。 本丸の間には堀があり、跳ね橋でわたれるように出来ていて、城壁には沢山の小窓が開いていました。昔はそこから重火器を出して城を防御していたのかもしれません。

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お城の展示室では、この地域にかつて傭兵として当地に迎えられたトルコ系の住民の暮らしが再現されていました。彼らはリトアニアに忠誠を誓いながらも、独自の文化を継承してこの地で暮らしていたとのことです。今でもリトアニアでは彼らの民族料理がキビナイなどを食べることが出来るそうです。 お互いに尊敬しあえば、違う民族でも共存出来るのだと妙に関心してしまいました。

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この日は天気も良くて最高の観光日よりでした。どうでしょうか綺麗な景色ではないでしょうか? また行ってみたい景気でしたheart04

2017年4月30日 (日)

世界を夢見て 51 ; ヴィリニュス大学

Th__2 リトアニアの首都ヴィルニュスには沢山の教会や祈念碑、大学などがあり、1日2日で全てが見れることは不可能です。世界遺産となっているヴィリニュス歴史地区の旧市街地でも一番大きな建物がヴィルニュス大学です。世界的に見ても貴重な古書のある図書館、大学構内に あるフレスコ画、当時グリニッジ天文台と双璧をなした天体観測所、聖ヨハネ教会とその鐘楼などヴィルニュス大学は是非みたい場所でした。どうやら校内を廻るツアーもあるようでしたが、時間の関係であきらめていました。市内を回ると、丁度ヴィルニュス大学の校門に出てしまいました。入り口で観光客は ユーロで入ることが出来るのですが、一番行きたい図書館はもう閉まるとのことでしたが、やはり入ることにしました。

Th__3 この地域では、クラクフのヤギュウォ大学(1364年)、ケーニヒスベルク大学(1544年)に次ぐ古い歴史を持った大学です。この地で16世紀に宗教改革が起こると、それに対抗するためにイエズス会が1570年に高等学校が設立しその9年後に大学へと改変してスタートします。この国の歴史と同じで色々な局面を迎えた大学でもあります。帝政ロシア時代は抵抗運動の中心となったため88年間学校は閉鎖となっています。現在は2万人の学生が勉学に励む大きな大学で、なんと日本の山形大学や神奈川大学とも学術交流をしているそうで、日本人の留学生も数名はいるとのことでした。

門の入り口で学生さんの様な方からチケットを購入して、学内に入ります。とても大学とは思えない広さと歴史的な建物です。中に入ると全く大学校内であることを忘れていまいそうです。駄目だと思いましたが、中庭を通り、古書室へと向かいました。ゲートがあり入館出来るか係員に訪ねましたが、もう閉館時間で入ることは出来ないとのことであきらめましたweep

Th__4 更に奥に進むと周囲を建物に囲まれた中庭に出ました。ここは大学らしく、学生さんがノンビリと本を読んだり雑談をしていました。再度入り口に向かうと正面に 教会があり、右手に高い天文台がありました。

 天文台は部外者も昇ることが出来、途中までエレベターで上がれます。最後はとても急な梯子が架かっています。足の不自由な人や高所恐怖症の方は昇りにくいかもしれません。 しかしその昇った先の展望は素晴らしく、塔を1周することが出来て、ヴィルニュス旧市内を360度見渡せる絶景ポイントでした。

Th__5 今度は天文台の塔を降りて、正面に見えた教会に入りました。とても大学校内とは思えません。最初にイエズス会が建てただけあって教会は見事です。高い天井、祭壇も豪華な彫刻が施され、ステンドグラスも鮮やかでした。

私が入ると同時に20名ほどの学生や教員が入って来ました。聖歌隊(合唱部)のメンバーの練習を行うということで、私も聴いても構わないとのことでした。私に取ってはサプライな出来事でした。 広く美しい教会を探索しながら、素晴らしい音楽も同時に聴けるというラッキーな機会に恵まれたのです。練習ですので、それぞれのパートの入り方などを入念に行っていました。この教会は音響もよく鳥肌が立つ程の響きでした。 しばし夢のような音楽に浸っていましたheart04

大学内を回る現地ツアーもありますので、もしヴィルニュスに旅行の折には検討して下さいね。素晴らしい図書館などを見ることが出来ると思います。もう一度訪れることがあれば、私もこのツアーに申し込みたいと思いました。世界は見ることが沢山ありますshine

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