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旅行・地域

2017年11月19日 (日)

世界を夢みて 66: ヴィエリチカ岩塩坑(世界遺産)

クラクフから南東15Kmにヴィエリチカという小さな町があります。ここは町の美しさのための観光地ではなくて、地下が重要な観光地となっています。

1250年から1950年代まで稼働していた、世界有数の岩塩採掘場がこの町の地下には編み目のように広がっています。この規模や美しさから1978年に世界遺産に登録されています。

ヨーロッパにはハルシュタット(ハルはケルト語で塩、ショットはドイツ語で場所)やザルツブルグ(ザルツはドイツ語で塩、ブルグは町)など岩塩が見つかった場所を中心に町が発展してゆきます。またイタリアの最古の道といわれるビア・サライアは「塩の道」の意味です。

周りを海に囲まれた私達は比較的塩を簡単に手に入れることが出来たため、この重要性を認識出来ないのかもしれません。

人間は塩がなければ生きることが出来ません。人間の祖先はアフリカ起源とされ、これがヨーロッパへと徐々に移動し、白人となって行きます。 しかし人間は塩がないと生きてゆけませんので、人の移動もヨーロッパの海岸沿いに沿って北上して行ったのです。そのため海から遠い内陸部には人は移動できませんでした。

ところがヨーロッパ大陸にはもともと海であった部分が隆起した所があり、その地下には海水が濃縮され、岩塩となって残っていた場所があったのです。 

この岩塩を探し出したお陰で人が住めるようになり次第に内陸にも人間が進出することが可能となります。 当時は塩は非常に貴重で金と同じ値段で取引されていたのです。この場所が見つかった国家は岩塩の採掘により莫大な富を得て、町を発展させていったのです。そのため国家は採掘場所を保存監視したのでした。

Th_dsc06993_2 このヴェエリチカ岩塩もポーランドの国家財政を支えた一つで、厳重に管理されたいました。現在観光客は地下64〜325mの約2.5Kmの採掘場のほんの一部を見学出来る様になっています。それでも巨大ですので迷子にならないためにガイドさんと一緒に入るようになっています。

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坑道へは抗夫達も使ったエレベータで降りてゆき、そこからガイドさんと共に2〜3時間のツアーとなります。

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後は入り組んだ道や大きな空間を通り奥へと進みます。

最初の空間ですが、補強のための木材以外は全て岩塩です。ちなみに歩きながら壁に付いた手を舐めても塩辛いですcoldsweats01

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全て塩の結晶で出来上がっています

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抗夫達が自分や家族を想い祈りを捧げたのでしょうか

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更に奥へそして深くなってゆきます。道も壁も天井も全て岩塩です。

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突然、地下の岩塩の採掘場に出来た巨大な空間、聖キンガ礼拝堂がみえて来ます。こんな場所が地下奥深くにあるとは想像出来ませんでした。遠景から眺めるだけで身震いする感動に襲われてしまいます。これも全てが塩で出来ています。

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この祭壇も全て塩で出来たものです

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天井から吊された巨大なシャンデリアも全て岩塩の結晶で出来上がっています

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聖キンガ礼拝堂の側面に彫り込まれた「最後の晩餐」のレリーフも全て塩で出来ています。

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地下深くには湧き水が出ますが、岩塩の中をしみ出ていますので、99%の飽和状態の水です。もしも泳いだら、有名なイスラエルの死海よりも軽々と浮くはずです(ちなみに死海の塩分濃度は40%程度です)

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この様に高い空間も存在します。

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ここの売店で売られていた塩の標本です。塩に含まれるミネラルの量で色合いが違うそうです。まるで水晶のような宝石に見えます。

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出口の近くには営業を続けているレストランもあります。この様な所でランチを食べてみたいですね。

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地上に出ると直営店もあり、様々な塩の商品を売っていました。高くもないのでここで自分用と友人用のお土産を買って帰りました。

**今回でバルト三国・ポーランドの旅も最後となります。すでに次回の場所も決めておりますscissors**

2017年11月 5日 (日)

世界を夢みて 65 : アウシュビッツ収容所・ビルケナウ収容所

今回の旅のある意味の目的地アウシュビッツ収容所ビルケナウ収容所を訪ねることが出来ました。私に取って25年前のポーランドでは訪れませんでしたので、今回が初めてとなります。

今回のツアーの中で数人の方はカウナスでのショッピングのため、アウシュビッツを訪れない方がいました。こんなことを書いたら失礼かも知れませんが、ここまで来たらアウシュビッツを見て欲しかったです。 もしも外国の方が広島を訪ねたら、たこ焼きや買い物をするだけでなく、どうか広島の平和公園や原爆ドームを見て帰って欲しいと願うからです。現地のガイドさんも多くの方が負の財産だけどどうか見て感じて帰って欲しいと話をしていました。

その方に大変失礼と思いますが、同じ日本人として悲しく思いました。嫌なことに目を背けては正しい判断が出来ないと思うのです。私自身も旅行の後半で、この様なつらい場所をみる事に心が重くなりました。 しかし本当に訪ねてよかったです。 人間はこうも残酷になれること、それは私自身が残酷な人間にもなり得ることを思い知らされたのです。 そうならない為にはどうすべきか心の奥にこの場所を焼き付けて置きたいと願いました。

今回の旅行は比較的天気に恵まれていたのですが、この日は朝から雨模様で更に気持ちが暗くなりました。 バスを降りて入り口に向かうと世界中から老若男女を問わず沢山の方々が施設の入り口へと列を作っていました。入り口で1人1人チェックがなされて入ることが出来ます。

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アウシュビッツ収容所第1収容所の門にはドイツ語で「ARBEIT MACHT FRE!」(働けば自由になる)と書かれています。しかしここに入った殆どの収容者は悲惨な労働の後に帰えることはありませんでした。収容された方々はユダヤ人が多数を占めますが、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者が含まれていました。

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入り口を振り返った写真です。もう2度と出ることが叶わない場所です

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中に入ると沢山の収容施設が並び、電気が流れた鉄条網に監視小屋があり、逃げ出すことは不可能でした。

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その一角に花束が置かれた「死の壁」と呼ばれる場所があります。この場所に何人もが立たされ銃殺刑に処された場所です。

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各地から集められた収容者は次々と増え、ナチスは効率良く殺す手段を研究します。それが毒室です。その小さな場所に入りきれない程詰め込めた後、毒ガスが注入されて殺戮されてしまいます。その後死体を効率良く移動するために、滑車がしかれています。人間は1度正気を失なうとこの様な事も行うことが出来るのです。これが戦争の正体です。

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アウシュビッツの建物の奥に大きな写真が棟の前に飾られていました。カトリック聖職者のコルベ神父の写真です。最後は収容所で「餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなって」殉職した神父さんで「アウシュビッツの聖者」と呼ばれています。この様な方が居たお陰で私達人間は救われる気がします。この場所は人間の残虐さと崇高さを同時に味わう場所となりました。

コルベ神父は多くのカトリック教信者を抱えるポーランドで尊敬を集める神父さんです。実はコルベ神父は1930年から1933年まで長崎を中心に布教活動を行い日本のキリスト教関係者でもとても有名な方だったとのことでした。

アウシュビッツ収容所第1収容所(基幹収容所)だけでは収容できずに、アウシュビッツ市には次々と広大な収容所が作られて行きます。

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私達は今度はバスで15分ほど移動して、アウシュビッツの第2強制収容所(ビルケナウ収容所)に向かいました。この施設は東京ドームの37個分もある広大な収容所で、建設にはソ連兵の捕虜が使われ、その後各地から汽車でユダヤ人が強制収容されます。「死の門」といわれる場所です。列車ごとこの門をくぐり、強制収容されてゆきました。

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死の門から収容所内に伸びる鉄道引き込み線です。今は緑の生えた土地ですが、ここにヨーロッパ各地から汽車に立錐の余地もないほど詰め込まれたユダヤ人が降り立ち、身の回り品を没収され、働けるかどうかで選別されて行った場所です。

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収容所内は何段ものスペースが区切られそれぞれの段に何人もが不衛生な状態で寝て暮らし、強制労働を経て、暫くするとガス室へと送られた行ったのです。

ここまでご覧になって頂き有り難うございます。

気分の良いものではありません。しかし私はこんなひどいことが出来る人間でも、それ以上に素晴らしい人間が沢山いることを信じているのです。いつでも希望の光は私達の心の中にあると考えていたいのです。

2017年10月29日 (日)

世界を夢みて 64: クラクフ市内観光 No2

城門を降りて、今度はクラクフの旧市街地へと向かいました。ポーランドの首都がワルシャワに移る以前の約500年間はクラクフが首都として発展していました(1038年〜1569年:ポーランド王国、1569〜1596年:ポーランド・リトアニア共和国)。

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クラクフの旧市街を外敵から守っていた城壁は19世紀には取り壊されてしまいますが、その一部が残存しており、北の入り口のゲートがフロリアンスカ門で1300年頃に造られたそうです。

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このフロリアンスカ門を防御する砦が1498年に建てられたバルバカンという円形の要塞となっています。

ヴァヴェル城の城門、フロリアンスカ門をくぐると美しく整備されたクラクフ旧市街に出ます。歴史的な建物と綺麗な石畳を歩くと、急に大きな広場にでます。

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この広場がクラクフの中心地の中央広場となります。多くの観光客で賑わったいます。何となくベネチアのサンマルコ広場を思い出す雰囲気がありました。この広場の総面積は4万㎡で、中世から残存する広場としてはヨーロッパでも最大級だそうです。

広場の中央に真っ直ぐ並んで建っているのが、織物会館と呼ばれるルネッサンス様式の14世紀の建物です。当時ここで衣服や布地の交易所だったためにこの名前がついています。

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現在は1階の中央部分はまるでアーケード街の様で、両サイドに民芸品やアクセサリー、刺繍などの店がぎっしりと並んでいます。買い物客や観光客でいっぱいです。2階はクラクフ王立美術館となっています。地下も地下博物館として2010年よりオープンしています。

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中央広場に面して、1222年に造られたゴシック様式の大きな建物があります。広場に面した部分は二つの塔が建っていて、その左側の最上部の窓は開けられる様になっています。モンゴル軍がクラクフを襲撃した際に、襲撃を知らせるラッパがこの部分から鳴らされたのです。しかしその時にモンゴル兵の矢によりこのラッパを吹いた方は死んでしまいます。

そのことを悼んで、今でも1時間おきに、この窓が開いて,実際に本物のラッパ吹きが時間を知らせてくれます。このことを知っていて観光客もこの時間には集まって来ます。最初音は聞こえるのですが、高いためにどこにいるのか気がつきませんでしたが、吹き終わった後に私達に向けて手を振ってくれたのでこの場所が分かりました。

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聖マリア教会は外壁は茶色で余り目立たないのですが、その中に入ると印象が一変します。ステンドグラスや目を見張る装飾品で飾られ、特に15世紀に作られたファイト・ショトーズ(Wita Stwosza)の祭壇は国宝に指定され、光輝く聖母マリアの被昇天を現しています。

ここで載せられないほど沢山の綺麗な風景がありますが、夜のクラクフの街もまた素敵でした。

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柔らかい光の中で、中世の世界に迷い込んだようです。

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綺麗に着飾った観光馬車もこの街に溶け込んだ風物詩のようでした。

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沢山写真を撮った中でもお気に入りの一枚です。偶然夕食の待ち合わせ場所で気がついて慌てて写真を撮った場所です。ヤママテイキ広場の騎馬銅像(グルンヴァルト戦勝記念碑)がライトにアップされ、隣の建物に影となって投影されていました。一瞬この幻想的な景色に時間を忘れそうになってしまいました。

美しい空間に身を置くほど贅沢な時間はありません。

遙か東の国と思えたポーランドも13世紀にはモンゴルの襲撃をうけ、クラクフの街も破壊され、人口も減少しますが、次第に復興してゆきます。14世紀からは国王自らユダヤ人を積極的に招き入れ、国力を増してゆきます。そのためにポーランドにおいてユダヤ人が多く住むことになり、そのためにナチスによるユダヤ人の虐殺がポーランドを中心に行われていってしまったのです。

2017年10月18日 (水)

世界を夢みて63:クラクフ市内観光No1

ワルシャワからバルト三国・ポーランドの旅行の最終地点となるクラクフへと向かいました。

クラクフは11世紀から1596年の約550年間ポーランド王国の首都として栄えた都です。当時のクラクフはボヘミアのプラハ、オーストラリアのウィーンと並ぶ中欧の文化都市として発展します。 ヴィスワ川に面したなだらかな丘の上に歴代の王の戴冠式を行ったヴァヴェル城が建っています。

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バス停を降りて、ヴァヴェル城に向かう道の右岸面は芝が植えられており、多くの市民が日光浴を楽しんでいました。その岸辺は遊覧船の発着場となっています。

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次第にお城が近づき、高いお城の城壁の部分に人だかりが出来ている場所がありました。大きな竜の像が立てられていて、多くの方が写真を撮っていました。なんと1〜2分毎にドラゴンの口から火を放つのです。どうりで子供達が熱心に見ている訳です。

この場所は竜の洞窟があった場所で、伝説によると、昔ヴィスワ川に悪い竜が住んでいて、美しい村の娘をさらって食べていたそうです。王の娘もこの危険にさらされます。村の靴職人が、竜を欺してタールと硫黄を染み込ました羊を食べさせます。竜は喉の渇きに襲われヴィスワ川の水をガブ飲みつづけ、とうとう破裂して死んでしまいます。それによって靴職人の若者は王女と結婚できたという伝説があり、立派に国を治めましたとのこと・・・scissors

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なだらかな坂を城門に向かった歩いて行くと、次第にクラクフ全体が見渡せるようになり、心地よい風が吹き抜けてゆきます。その先には大聖堂旧王宮などの建物があります。

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城門の中は思ったより広く、綺麗に花々が植えられているだけでなく、その向こうの美しい形をした大聖堂みえて来ます。その景色はまるで美しい絵画のように思える程です。 

この大聖堂は長い間、ボーランド国王の戴冠式などが行われ、それまでの国王の墓所ともなっています。長い間に幾度も増改築を繰り返したために、様々な建築様式をみることが出来ます。尖塔だったり丸かったりと形も様々ですが、それでもまとまった美しい大聖堂です。Th_dsc06342

この大聖堂の中は撮影が禁止のためにお見せできないのですが、煌びやかな装飾、王墓なども世界的に美しいと言われているほどで、ため息が出るほどです・・・写真が撮れたら最高だと思いますが・・・

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そこから直ぐに旧王宮に入ることが出来ます。四方が囲まれた広場の中央に立つと360度美しい建物の中にいる実感が湧いて来ます。今は博物館として使用されています。

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規模は小さいのですが、この中には世界的にも有名で貴重なレオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を所蔵しているチャルトリキス美術館でしたが、2012年から2017年5月まではこの王宮の1室に展示コーナーが変更になり、私の方は王宮でこの絵を見ることが出来ました(展示もこの一枚だけで20分単位で20〜30人までの枠で入ることが出来ます)。 世界的にあの有名なダビンチの油絵のポートレートは世界に3枚(4枚?)しかないのです。この一枚をみるために世界から多くの愛好家も訪れるそうです。 

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は沢山ありそうですが、他者を描いた油絵のポートレートは「モナリザ」「ミラノの貴婦人の肖像」とこの「白貂を抱く貴婦人」だけということです(ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像を加えると4点?)。

ダビンチの絵はモナリザもそうですが、肖像画の背景も緻密なほど細かく描写されているのですが、この「白貂を抱く貴婦人」では修復の過程で殆ど黒く塗りつぶさてしまい、どのような背景だったのが分からなくなっているとのことです。そのことを考えると複雑な思いですが、背景が黒いお陰でこの貴婦人のやや赤みを帯びた顔の白さが浮き上がって来る気がします。私の様な美的感覚のない者が表しても愚かなことですが、折角だったら、ごつい手ではなくて繊細で華奢な手を描いて欲しいと感じてしましましたcoldsweats01

2017年10月 8日 (日)

世界を夢みて 62:ショパンを訪ねてNo2(生家とミニコンサート)

クラッシック音楽を知らない私でもフレデリック・フランソワ・ショパンについては聴いたことがあります。熱烈なファンも多いと思いますし、ピアノの詩人として言われた彼の曲のことを書いても墓穴を掘るだけでしょうから触れずにおきますcoldsweats01

フランス出身の父とポーランド人の母のもと2番目の子供としてポーランドで生まれます。7歳で最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲し、16歳でワルシャワ音楽院へ入学し、首席で卒業します。21歳で故郷を出て、ウィーンや父の祖国のフランスで過ごしますが、その間に祖国は色々な動乱に巻きこまれ、彼自身も肺結核(おそらくそうだと考えられているようです)に犯され、ポーランドへの望郷を抱いたまま、帰ることなくパリで39歳で亡くなります。

Th__2 既にその当時、名声を博したショパンだったため、フランスで壮大な葬儀の後、フランスの墓地に埋葬されます。以前そこを訪ねたことがありましたが、沢山の花が飾られており今でも多くの方に愛されていると感じました。最期に姉のルトヴィカが訪ねてきて、自分はもう祖国に帰れないが、心(心臓)は祖国に持ち帰って欲しいと・・・(当時、心は心臓に宿っていると考えられていたため、精神は祖国に帰して欲しいと願ったのです)。遺言通り彼の心臓は死後アルコール付けにされ、今はワルシャワの聖十字架教会に在るわけです(http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/61no1-3ba2.html

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ワルシャワから西に60Km程のビォラ村にショパンの生家があり、今ではショパン博物館として整備されています。

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ショパンがいた当時の家具や実際に使っていたピアノや実筆の手紙などの展示もあります。それ程見るべきものは多くはありません。旅行日程に組み込まれていなければファンでなければ少しガッカリするかもしれません。

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しかしながら25年前と比べたら、周りが見違えるほど綺麗に整備されていて、入り口のゲートもかねたギフトショップも充実していますし、公園も広々で整っていました。その意味では以前より出かけても十分楽しめる気が致しました。余り買い物をしない私ですがギフトショップでショパン関連のお土産などを買って帰りました。

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木々に被われ、池や川も流れる公園は歩くだけでも元気になれます・・気持ちよいですheart01

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公園の奥の方から音楽が聞こえて来ました。大人も子供もいますが、青空演奏会?が開かれるのでしょうか思い思いに準備をしていました。時間があればゆっくりと聴いてみたい思いました。

その後ワルシャワに戻り、散策後夕方からはミニコンサートに出かけました。25年前に来た時にはショパンの生家でも学生らしい方が何曲か弾いて下さり、夜は水上宮殿でのコンサートを楽しんだ記憶がありました。場所も素敵でした。

今回も折角のワルシャワですのでプライベート・リサイタルを聴くことにしました。

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とある2階の会場にてのコンサートです。この様な空間でピアノを生で聴けるのは本当に幸せな時間となりました。

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今回の演奏者はMaciej Poliszewskiさんでショパンアカデミーを卒業し、同校で教授もなされた方です。国内外で演奏活動をこなしながら、この様なプライベートの音楽会も開催されています。 流石にプロの方の弾き方は繊細さと力強さがありました。私の方は特に彼の小指のタッチが凄いなと感激しつつ、あっという間に終わってしまいました。終了後は彼のCDを二枚ほど求めて、サインを頂き、更に写真も一緒に撮って貰えました。宝物ですが、彼の写真だけでなく私の顔も大公開になりますのでこの写真は省きましたcoldsweats01

姉がピアノをやっていたせいで、子供の頃より聞き慣れたピアノの音はやはり大好きです。またチャンスがあれば聴きに行きたいです。

2017年9月25日 (月)

世界を夢みて 61 : ショパンのワルシャワを訪ねてNo1

ワルシャワの街を廻ると、至る所でショパンに出会えます。それ程ワルシャワ市民はショパンを愛しいるのだろうと感るのです。

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25年前と同じ佇まいだったワジェンキ公園のショパン像と再会。当時の記憶のまま変わらず鎮座していました。柳の木の下に座り故郷の自然を眺めているショパンの像です。

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この広場には沢山の椅子がなら並べられ、夏の間はショパンのミニコンサートを無料で聴くことが出来る市民の憩いの場所となっています。

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ただ25年前と違ったのは市内各所(おおよそ15カ所)に黒っぽいショパンのベンチがあったことです。このベンチはテーブルの上に現在地を示した地図が書いてあり、その横のボタンを押すとショパンの曲が流れます。どのテーブルも違う曲が流れますので、ワルシャワでこの椅子を見つけたらボタンを押してみるのも楽しいですよ。

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この公園を抜けて、王宮広場へと続く大通りに面し、コペルニクス像の近くに、聖十字架教会があります。ポーランドに生涯帰ることが出来なかったショパンの遺言通り、姉のルドビガによって彼の心臓はワルシャワに持ち帰えることになります。この心臓は今でもこの教会の支柱の一つに安置されています。当時心臓に心が宿ると考えられていたため39歳で生涯を閉じたショパンは肉体は帰れなくても「心はポーラントに帰りたい」と願っていたのです。

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第二次世界大戦中は教会もドイツ軍により破壊され、心臓も持ち出されますが、教会の再建後無事ショパンの心臓も元通り安置されています。ショパンの心臓はアルコール浸けで保管され、50年に1度ほど、専門家の調査のため開けて保存状態を調べられるとのことで、その時以外は関係者もみることが出来ないそうです。

Th_dsc05768_2 また今回違っていたのは、教会の側面に大きく聖人となったポーランド出身の第264代ローマ法王のヨハネ・パウロⅡ世のレリーフが飾られていたことでした。熱心なカトリック信者の多いポーランドで本当に愛されていた神父さんだったことが分かります。特に2013年にローマ法王庁が聖人になる条件を満たしたと「列聖」として認めた事によりポーランド各地の教会や広場などで彼の写真や銅像をみることが出来ました。



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この教会を出て直ぐ斜め向かえに美しいバロック形式のヴィジトキ教会があります。その近くの学校にショパンは通っており、1825年にショパンは日曜ミサの際にパイプオルガン奏者に指名され、この教会で何度か演奏したそうです。

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今でも当時のままのパイプオルガンが残されていますが、今回は修復中でオルガンの前がカバーされていました、残念!

ショパンの生誕100周年にあわせて2010年にリニューアルされたショパン博物館があるのですが、残念ながら時間が無く廻れませんでした。次回ワルシャワに行く機会があればぜひ訪ねたい場所です。

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その後ショパンもよく食べに来たという「ホノラトカ」にて夕食を頂きました。ヌードル入りのコンソメスープ、ベレメニ、生野菜、アップルパイなどを頂き大満足。きっとショパンも食べたのだろうななどと思いながら食べさせて貰いました。

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店のオーナーからショパンがいつも座っていたという席を説明され、写真をパシャリと(中央の2人掛けの席です)・・・ショパンを敬愛する方々が世界中からこの席を指名して食事に来るそうです。

次回はショパンの生家とショパンのミニコンサートを紹介致します。

2017年9月 8日 (金)

世界を夢みて 60 : ワルシャワ市内観光No2

前回のワルシャワ市内観光の続きです。これまでの旅行記に写真を多く入れるとすぐに量が多くなってしまうために、分けて載せています。

ワルシャワ市民がこよなく愛しているショパン関連以外の観光を先にご紹介します。前回紹介したワルシャワ市民には不人気の文化科学宮殿から東のヴィスワ川に向かった辺りが新市街地区、更に奥が旧市街地域となります。特に多くの建物は第二次世界大戦時にナチスにより徹底的に街が破壊されますが、ワルシャワ市民の情熱で復興を成し遂げます。

新市街地区の中央には幅が50mもある大通りがあり、両サイドに高さを揃えた建物が並んで建てられています。レストランやカフェ、有名ブランドショップも並びますが、歴史的な教会や大学などもある、賑やで開放的な通りとなっています。

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南側でマルシャウコフスカ通りからクラクフ郊外通りと名前を変える辺りに、コペルニクスの像が建っています。

25年前に立てられた時には周りが工事中ではなかったのですが、今回は周りの建物が工事中でコペルニクス像が上手く撮りにくい状況でした。1473年生まれのコペルニクスはクラクフ大学で天文学を学んだ後イタリアのボローニャ大学に留学し法律を学び、再度故郷のポーランドで司教となります。有名な地動説を研究しますが、天動説を唱える教会とは相容れない考え方で、彼は地動説を唱えた書「天体の回転について」の発表を死の直前で発表します。そのため彼自身は迫害は受けずに済んだのです。しかしその1世紀後のガリレオ・ガリレイは地動説を曲げずに宗教裁判で処刑されるのです・・ガリレイはちょっと可哀想ですweep

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コペルニクス像のすぐ近くにショパンの心臓を祀った聖十字架教会があります。

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そこから3分ほど歩くとワルシャワ大学があります。1810年創立の総合大学です。25年前にこの場所で写真を撮ったのですが、今と違い髪がふさふさで我ながら月日の流れを感じてしまいましたweep

今回はガイドさんがワルシャワ大学の出身で今でも関連があるとのことで、大学の校内にも入ることが出来ました。中では新学期に向けてのレセプションの準備などを行っていました。売店もあり、ワルシャワ大学のネーム入りのシャツなども購入可能のようです。やはりこの大学もドイツとの抵抗運動の場所でもあったため、ワルシャワ蜂起や教育禁止令により63人の教授が犠牲となり、キャンバスも60%が破壊され、さらに大学の所蔵資料も80%が燃やされたりドイツに持ち去られ、その後戻ることはなかったと言われています。

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暫く歩くと大統領官邸がみえて来ます。入り口にはポーランドの英雄ユーゼフ・ポニャトフスキ像が立っています。

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そこから大通りを旧王宮に向かうと、ため息が出そうな程綺麗な王宮広場があります。中央に立つとどこから写真を撮っても綺麗と思える景色があり、多くの観光客が集っている場所でもあります。

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広場の中央には1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジブムント三世の碑が建てられています。周囲は旧王宮、洗礼者ヨハネ大聖堂などの建物が整然と建っています。

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王宮広場を少し下ってゆくと、これもナチスにより徹底的に破壊された旧市街広場に出ます。丁度ワルシャワ旧市街の中心地の部分となり、四方が四角い色とりどりの建物に囲まれ、多くの民芸品店やレストランなどが軒を並べています。

広場には椅子が並べられ、観光客が座ってくつろいでいます。
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広場の真ん中にはワルシャワ市の紋章となっている「人魚像」があります。コペンハーゲンの可愛らしい人魚像と違い、この人魚像は楯と剣を持って筋骨たくましい人魚さんです。シッポの形も竜の様な感じです。昔話で、人魚がヴィスワ川の漁村のワルシャワを気に入り住み着きますが、最初は悪戯好きで漁民の網を破ったりしたそうですが、容姿も唄声も綺麗で次第に漁民達も人魚を受け入れます。しかし彼女を見せ物の商売に使用とした商人が罠を仕掛け、人魚を捕らえるのですが、それを聞きつけた漁民が彼女を助けます。それに感謝し、人魚は剣と楯でワルシャワを守ることを誓ったそうです。そのためにワルシャワの紋章となったそうです。道理で可愛い人魚さんではなくて勇猛果敢な感じを受けるわけです。

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25年前の写真を見返すと、同じ様な人魚像がどう見ても旧市街広場ではないところ(城壁の近くでしょうか?)にあるのです。 そう思い色々な本を見てみると、なんとワルシャワ中心地にもう一つあるとのことでホッとしました。 25年の間に人魚姫が自分で移動したのかと思いました・・coldsweats02

ところがそれだけでなく、その時の旅行で買ったポストカードを見ると、旧市街広場の人魚像がないではないですか・・・Why?

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上のポストカードの中に人魚像がいない、やはり時々川に泳ぎに出かけているのでしょうか?・・・・この疑問も調べてみると、途中像の修復期間があったようで、上の写真は人魚像が修復に出された時の写真ではないかと想像しました。ワルシャワの守り神なのですから夜な夜な遊びに行っていてはこまりますhappy01

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ここから暫く歩くとかつての二重で出来た城壁の通り抜けてゆくと、旧市街から新市街地となります。

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あまり目立たないのですが、キューリーの生家があり、現在は博物館として研究資料や写真などが展示されています。彼女はパリ大学へ進学し、そこでの研究で、世界で唯一ノーベル物理学賞(1903年)とノーベル化学賞(1911年)の2部門で受賞した方です。彼女もやはりボーランド市民が尊敬する方でもあります。

次回はポーランドで一番愛されたショパンについて書いて見たいと思います。

2017年9月 3日 (日)

世界を夢みて 59 : ワルシャワ市内観光No1

ポーランドの首都ワルシャワは歴史、文化、音楽、教養が溢れる文化都市でした。25年前と比べても更に近代都市と変貌していると感じました。
今回はリトアニアからバスで入国したのですが、ワルシャワ・ショパン空港やワルシャワ中央駅から入って来る旅人も多いと思います。
夜、ワルシャワのホテルに着いたのですが、いつものように寸暇を惜しんで、夜の街の散策へ。もちろんこんな時にはリスクを避けるために人通りの多い所しか歩きませんが・・・

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ワルシャワ中央駅の夜景です。光が美しく、構内も清潔で綺麗でした。このワルシャワ中央駅と近く文化科学宮殿の辺りが1番賑やかな所で、大きな近代的なホテルやビジネス街もこの辺りに集中しています。モダンな場所です。

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ワルシャワ駅に隣接するバスターミナルです。ここも光が綺麗でした。 

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お店は閉まっていましたが、酔っ払いに気をつけながらウインドウショッピングです

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右奥の茶色い部分がワルシャワ旧市街地で右手前が新市街地となります。

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反対側には高いホテルやビジネスビルが並びます。この写真からでもワルシャワって広いということが分かって頂けると思います。

さて、上の写真はどこから撮ったと思いますか?、ワルシャワ市民がジョークでここからが1番美しい眺めだと言っています。何故かって・・・それはこの場所で見れば、この建物(下)を観ないで済むからだと言うことなのですが・・・・⤵

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→実は、上の写真は、悪名高き(笑)文化科学宮殿の一番上の展望台からの写真だったため、この宮殿をみなくて済むというポーランド人らしい話しです。この建物はスターリンによってソビエト連邦からポーランド人民への贈り物として1955年に完成します。高さ237メートル、42階立てで、尖塔の高さが49m、部屋数3288室とワルシャワのシンボルタワーですが、当時の名前はヨシフ・スターリン記念文化科学宮殿の名称でした。ソビエト支配に快く思わない多くの市民にとっては、この建物は支配の象徴だったのです。そのためにこの建物自体が見えない展望台からの眺めがワルシャワの一番いい景色だと揶揄したのです。 

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今ではスターリンの名前は省かれ、文化科学宮殿となっています。展望台には夏季は20時、冬季は18時まで開いています。エレベーター近くの案内所で20ztで購入出来ますが、結構混んでいました。更に私が乗ろうとした時に団体客が入って来たために15分ほど待たされました。乗りたい方は時間の余裕をみて昇って下さいね。

幾つか写真を撮ってホテルに戻り明日からの市内観光に備えました。一気にワルシャワ市内観光を書き終わろうと思ったのですが、写真が多く見所も沢山したので、ワルシャワ市内観光を続けて書きたいと思います。飽きずにご覧下さいね

2017年8月13日 (日)

世界を夢みて 58 : 驚異的な復興を果たしたワルシャワ

バルト三国を終え久しぶりのポーランドに入国です 。

私が始めて訪れた25年前はまだソビエトの支配から解放されてまだ日が浅く、混乱状態だったのかもしれません。それでも戦後のワルシャワの街の復興には驚嘆するばかりでした。

私は当時東ヨーロッパは経済的にも文化的にも低いと考えていました。しかしポーランドは当時すでにノーベル文学賞が4人いて、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を同時に受賞したキューリーが生まれた場所、更にショパンが半生を送った場所だったのです。15世紀はクラクフ大学出身だったコペルニクスが地動説を唱えて科学的な学問の都だったのです。日本では室町時代から戦国時代にかけてになります。

Dsc05942 ポーランドの首都ワルシャワはヴィワス川沿いの小さな街が次第に工業と商業が発展してゆき、16世紀にクラクフから首都が移り急速に発展します。一時期、リトアニア・ポーランド共和国としてヨーロッパ最大の国家として繁栄します。沢山の宮殿や街並みが整理され、本当に美しい町となって行きます。

しかし、この街に最悪の悲劇が訪れます。第二次世界大戦末期の1944年にナチスドイツに対するワルシャワ蜂起が失敗し、その報復のためにこの美しい町は徹底的に破壊されてしまうのです。その状況を映画の「戦場のピアニスト」の最後のシーンで再現されています。皆様方ももしまだ見ていなければ映画そのものも良質な映画と思いますので、ワルシャワの状態を思い浮かべて観て頂ければ嬉しいです。

あれ程破壊された街をワルシャワの市民は「ひびの1本にいたるまで」をスローガンに忠実に街を復元して、元の美しいワルシャワを取り戻していました。四半世紀前に私がワルシャワの街を歩いた時に、戦後の破壊された写真と現実に自分が歩いているこの街の姿に、人々の思いが伝わり心が震えたのを覚えています。

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街角にあった破壊された旧市街の写真です。

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人々が集う旧市街の中心地。戦争より皆が集う広場がやはりいいです。

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人々の思いにより復元されたワルシャワ旧市街、どれほどの情熱を注いだのでしょうか。1980年に世界遺産となりました。不屈な人々が暮らす街です。

2017年7月23日 (日)

世界を夢みて 57:リトアニアの第2の都市カウナス

朝早くリトアニアの第2の都市カウナスの杉原千畝記念館(旧日本領事館)を訪問(http://omoromachi.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/56-e6bc.html )後、午前の僅かな時間でカウナスの旧市内観光を行いました。

カウナスは13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために、カウナス城と城壁が築かれた町で、15世紀半ばにはハンザ同盟の代表部が設けられて商業都市として発展します。第一次大戦から第二次大戦の間はポーランドによってヴィルニュスが占領されたため、カウナスがリトアニアの首都として暫く機能していました。

私達は旧市街の南側でバスをおり、暫く徒歩での散策となりました。木々も多く広々として心地よい風が通り抜ける街でした。

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バスを降りて直ぐの所に、15世紀にゴシック様式の建物があります。ここはかつては商人の館として使われていましたが、以前この場所は「雷神ペルクーナスを祀る神殿」があったと言い伝えられていた所です。19世紀の修復の際に、30Cm大のブロンズ像が見つかり、言い伝えは正しかったとの論争が巻き起こるのですが、残念ながらこのブロンズ像は消失してしまったとのことでした。

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暫くすると大きな市庁舎広場に出ました。旧市街の中心部で、周りにゴシック形式の博物館やギャラリー、教会が建ち、その中心部に旧市庁舎があります。 旧市庁舎は白鳥に例えられる綺麗な16世紀のバロック形式の建物です。現在は結婚登記所となっているとのことです。確かに美しい建物で、多くの方が記念写真を撮っていました。

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広場を曲がった直ぐに、これも綺麗な15世紀の赤煉瓦づくりの聖ペテロ&パウロ(ベトロイルポヴィロ)大聖堂が見えて来ます。第二次大戦で破壊されしまいましたが完全に修復されています。現在はリトアニアのカトリック司教座聖堂となっている教会です。

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ここは外観よりも内部の美しい教会でした。フレスコ画や彫刻、ステンドガラスが美しく、祭壇は特に荘厳で綺麗でした。

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静かに花を手向ける方がいました。とても静寂な世界です。この様な静寂さが好きで、暫くこの場所にいたいぐらいでしたconfident

教会を出ると、これから結婚式を挙げる花嫁さんやこの友人やご家族がにこやかに準備をされていて、写真を撮らせて貰いました(顔がはっきり分かるためブログに載せる事は出来ませんが、綺麗な花嫁さんでした)。結婚式でも配るのでしょうか?花嫁の父からカゴに入ったお菓子を私も頂きました(ありがとう!、お幸せにheart04

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広々とした通りを歩くと、以前のカウナス城の塔と城壁の一部をみることが出来ます。カウナス城は元々台形の城壁で囲まれ、4つの塔を持っていたそうですが、今ではこの僅かな部分が残っているのみでした。

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お昼は近くのレストランで、リトアニアの郷土料理の「ツェペリナイ」を頂きました。ツェペリナイはモチモチした厚めのジャガイモで出来た皮の中に、豚肉などの詰め物を茹でる料理で、この皮を創るのに時間がかかるようです。確かにモチモチして美味しい料理でした。

もう少しノンビリしたかったのですが、腹一杯になった後は6時間かけてポーランドのワルシャワへと向かうのでした。いよいよリトアニアそしてバルト三国ともお別れです。

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