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2022年5月15日 (日)

個人的な沖縄復帰50年目の思い

今日5月15日は沖縄が日本本土に復帰した記念日です。あれから50年を迎えました。復帰は私の中学の時で、これまで使っていた米ドルから日本円に変わり、指で感じる紙幣の差を今でも覚えています。

沖縄は今でも本土との経済格差や差別の問題、基地の問題など多くの問題を抱えています。それを書いたら膨大の量になると考えています(今回以前書いたブログを久々に読み返しました。関連する記事を赤い字でリンクしておきます)。

1945年米軍が上陸し唯一陸上戦を展開して、有形、無形とわず多くものが破壊された沖縄でした(→沖縄慰霊の日→沖縄戦から70年)。美しい那覇の街並みも丁度ウクライナ戦争のマリウポリのように 破壊され尽くされてました。  

1952年のサンフランシスコ講和条約により、日本の主権・平等を認める代わりに、沖縄・小笠原を米国は支配下におくことが承認されました。

占領下の沖縄では日本語教育から英語教育への変換も試みたようですが、これをどうにか拒否して日本本土と同じ教科書を使い勉強出来たのは、幸運なことだと私は考えています。 米国に屈して英語教育を受けていたら、私もきっとネイティブな英語を喋っていたのかも知れません。 その方がグローバルな現在では良かったんじゃないか、復帰せずにグアムのような米国領となった方が良かったと考える方もいるかも知れません。 私は全く同意しません 

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言葉は文化であり、言葉は心(思想)を体現化するものです。人が人であるための考え、感性を磨くのが言語です。

グローバル社会で英語教育が重要だと叫ばれています。英語が使えることはとても視野が広がると考えています。しかし重要なのは英語圏の小学生が使える程度の会話を習得するよりも考える力を獲得する方が大切だと思うのです。 単なる翻訳はこれから進歩するAIにまかせればいいと考えています。あと10年20年もすればタブレット端末で異なる言語の同時会話が可能になると考えています(→語学力とグローバル力の違い)。

時々、本土の方(沖縄でも知らない方もいます)が沖縄の言葉が理解しにくいために、日本語と違うと考えている方もいます。沖縄の方言(ウチナーグチ)は日本語の1方言に過ぎないのです。中国語や英語ではありません。 

沖縄の方言には今でも京都の古語が沢山残っています(→以前のブログ)。もしも米国占領の沖縄で、米国が望む英語教育に代わってしまっていたら、これまで脈々と先祖から繋がった言葉(=文化や思考)を失うことになったのかもしれません。

高校卒業後、初めて沖縄を離れて東京の予備校へ。その時の予備校の仲間から「英語は勉強しなくても満点だよね」と言われたことがありました。恐らく多くの本土の方は沖縄では復帰まで英語教育を受けたと勘違いしていたのかも知れません。

私は戦後の沖縄、それも田舎の村に生まれ育ちました。田舎のお陰で、電気や水道、電話などが子供の頃にない時代を覚えています。子供の仕事として井戸の水汲みなども経験しました。素朴でも一生懸命働くことの大切さを教えて貰った方々がいました(→汗水垂らして働く) 。ユニセフからの脱脂粉乳や小さなパンも経験しました(「1つのパン」がつなぐ社会) 

短期間に色々な生活が激変してゆく過程を実際に経験することが出来ました。電気の明かり、白熱球から蛍光灯に変わった瞬間の家の様子、水道が通った日のこと。高校までキビ畑をはじめ農作業の経験や家畜の世話など。初めて沖縄を出て東京の予備校で過ごした時期の挫折感や孤独も経験しました(→クリスマスに思うこと)。

そして社会的には民主主義国家である米国が占領下では民主主義的でないことキリスト教徒と称する方が自分の利益を守る為に戦争を行うこと差別された側がより弱い立場を差別する構造。復帰前、復帰後の子供時代に色々な貴重な経験をさせてくれたのが沖縄でした(→何度も繰り返される悲劇)。

今日、復帰50年目を迎えた沖縄。今でも多くの矛盾を抱えたこの地から、冷静な目で日本や世界の動きみてゆきたいと願うのです(→復帰45周年)。

沖縄にとって必ずしもいいとは思えない戦中・戦後の歩みですが、私個人にとっては他の地域で生まれていたら味わえない経験を数多く学べた沖縄に感謝したいです。平和や自由・平等が如何に大切なものか、そしてこれを維持するのは破壊することよりも忍耐が必要であることを卓上の学問からではなく、肌感覚で感じ取れたのが沖縄だったのです。

今日は復帰50年の記念日ですが、明日からもなにも変わらない日常が続きます。その1日1日を愛おしく大切に生き続けたいのです💖

 

<P.S>

愛の反対は憎しみではなく、無関心です(The opposite of love is not hate, it’s indifference.)。しかし関心を持つことは喜びと共に苦しいこともあるのです。いつかこれを乗り越える力を持ちたいと願うのです。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

今日は沖縄の本土復帰50年目ですね。私もある意味負い目を感じながらいつも沖縄をみております。東京でマスコミの仕事をしながらも感じる本土と沖縄の差を実感していました。ここ数日は色々な新聞を見ながら沖縄が置かれた戦後史をもうもう一度確認しました。多くの場合は沖縄の基地の多さなどを細かく記載しています。残念ながら本土の人が沖縄のことを見て見ない振りをして責任感を逃げて来ていると感じます。
先生は私達本土の方を非難していませんが、私は最後に先生が書かれたマザーテレサの言葉を引用したことが私達本土の人々への抵抗だと痛感しています。私も含めて沖縄のことを考えると日頃人は平等であるとの言っている自分が恥ずかしくなるからです。乗り越える力は沖縄ではなく本土の人々だと理解しております。
沖縄で育って来た先生の生の声に触れる機会が持てたことに感謝したします。どうぞこれからもお体を大切にして情報を発信して欲しいと願っています。いつも本当にありがとうございます。

院長先生
こんにちは。
今日は沖縄本土復帰50年ですね。
県民の皆様方はどのようなお気持ちで
この日をお迎えでしょうか?
院長先生の記事の中のリンクは全て
拝見させて頂きました。

沢山の問題がありますね?
私には申し訳ないですが、しっかりとした
意見が書けずにすみません。

復帰後、直ぐに訪れた沖縄の青い海に真っ青な空!
慰霊碑にもお参りさせて頂き、多くの犠牲者のお名前に
ただ驚きを覚えました。
何の知識も持たずに訪れた事が恥ずかしくなりました。
お許しくださいませ。

今は又、観光客が増えて感染者数も増え、
新たな問題ですね?

せめてコロナ禍が早く収束しますように〜。

信州の隠居老人さん、こんにちは。

信州の隠居老人さんが感じている負い目は私のような沖縄生まれの人間にもあることです。私が考える本土の1部の方が持つ負い目と、私達沖縄が持つ負い目は違いがあると思います。1つは「押しつけている」に対して「自分達ももっと頑張る必要があった」だと思います。

今回のブログはあくまで個人的な私の歩みの中で感じてきた沖縄について記載をして行きました。

最後のマザーテレサの言葉は普遍的な意味合いで追記しました。感心を持つことは関わりが深くなり、喜びとともに痛みや責任感も出て来ます。後方の辛い部分も乗り越える力を人類は手に入れなければならないと考えて記載しました。

いつもコメントを頂きありがとうございます。

マコママさん、こんにちは。病院から帰って来ました。今日の那覇市は復帰当時と同じ雨の中です。

今日は記事を書きながら、昔の自分のブログで沖縄についてのことを読み返しました。これだけ色々な記事が残せたのはやはり沖縄に育った特殊性にあると思います。

マコママさんとこのようなやり取りが出来ているだけで沖縄に住んでいる私は嬉しいのです。

復帰後お尋ねになられた沖縄ですが、あれからも随分と変わりました。私は今の中学生・高校生の年代で沖縄戦で鉄血勤皇隊でなくなった叔父が2人います。子供の頃よりお祖母ちゃんから戦争の悲惨さを教えられて育ちました。私などが直接戦争を体験した親や家族から話を聞いた年代だと思います。 その為に平和の大切さをこれからも訴えて行きたいのです。

沖縄は観光で成り立っていますので、感染者増はやむなしだと受け止めています。今は兎に角感染が収束に向かって欲しいです。

マコママさんには、心を痛める記事の内容にもコメントを下さり、深く感謝致します。どうぞよろしくお願いいたします。

院長先生
こんばんは。
今日もお疲れ様でございました。

再度、お邪魔させて頂きました。

実は私は父の仕事(現在の武漢で貿易商)の関係で戦後の引き揚げでした。
国内の戦争は知らずでした。
父は現地召集で陸軍へ!母と幼い妹と心細い暮しでした。
現地の財産全て没収だったそうです!
引き揚げ後は苦しい生活でしたよ。
戦後の日本も多くの方々がご苦労されたと思いますが、
特に日本でありながらアメリカに占領されての沖縄の
生活はとても大変な事と想像もつかず心苦しく思っております。

基地の問題等、少しでも負担を減らす事が必要ですね。
本土に住んでいて申し訳ないない気持ちです。

長文、駄文でお許しくださいませ。

マコママさん、こんばんは。

マコママさんのお父さんも大変だったのですね。中国からの引き揚げは苦悩の連続だったと想像します。戦争は何もいいことがありませんね。私の方は戦前学校長だったお祖父さんと、長男、三男、四男が沖縄戦で亡くなります。父は次男で旧満州に徴兵され、戦後捕虜になってから沖縄に戻って来ました。戻った時にお祖母ちゃんが掘っ建て小屋に住んでいたそうです。その時に沖縄の惨状や父や兄、可愛がっていた弟2人が死んだことを知りました。

父は戦争の話をしませんでした。余程苦しかったと思いますし、私もとうとう父からは戦争のことを聞けずじまいでした。

ただ私の名前の1文字は三男の小父さんの名前から取っています。10代で亡くなった小父さんに恥じないように生きなければとの思いはずっとありました。

マコママさんの様に感じてくれる人がいるだけで沖縄は救われていると考えています。申し訳なく思う必要はありません。これからも関心をよせて頂くだけで十分です。ありがとうございます。

こんばんは。

私達は当時沖縄返還と言っていましたが
沖縄本土復帰と言う表現の方がいいんでしょうか。
私は復帰後直ぐ位に友人とお邪魔しました。
それ以前はパスポートも必要だったんですよね?
米ドルが流通していたと言うのも今となっては不思議な感じがします。
陸上戦になった時のイメージは今のウクライナと同様だったのでしょうか。
もし自分の住む家や土地があのように破壊されたら
正気じゃなくなりそうな気がします。
そういう思いをされた沖縄の方々は本当に頑張って来られたと思います。
ただもし米軍基地が無くなってしまったら、ロシアや中国、北朝鮮の脅威を
どう牽制したらいいのでしょう。
とは言っても沖縄の方々だけに負担を強いるのは地理的に言っても違うと思います。
沖縄の基地を本土に引き取ろうと言う運動をしている団体もあるそうです。
どちらにしてもとても難しい問題だと思います。
占領下の沖縄でもし英語教育になっていたら、日本人としてのアイデンティティが
失われてしまうような気がします。
50年で社会も文化も見える景色も劇的に変わりました。
平和だけは永久に続いて欲しいのですが・・

sharonさん、こんばんは。

そうですね、その当時は本土では沖縄返還と言っていましたし、私達沖縄県民にとっては日本復帰と呼んでいました。私の兄や姉は東京の大学でしたので、当時はパスポートを持っていたそうです。

中学までドルの紙幣、コインでしたので、初めて握った日本円の紙幣はさらさらした感じを今でもよく覚えています。

沖縄は日本で唯一3ヶ月に及ぶ血みどろの地上戦を経験します。丁度マリウポリのように原型を留めない程破壊され尽くされます。行き場のない住民は戦場をさまよい、多くの住民が殺されます。これは恐らくマリウポリよりも多く死んでいるはずです。 死者だけで県民の4人に1人ですが、怪我を負わなかった方は皆無だと思います。私が小さい時に足や腕をなくした方をよく見かけました。

私は日米安保を否定する立場ではありません。しかし日米地位協定は不平等そのもので直ぐにでも改善しなければならないと思います。また日米安保が重要であるならば等しく負担をすべきだと考えます。米軍の展開能力の高さからすれば、なにも沖縄にこだわる必要もありません。北朝鮮の脅威論ならば、福岡や山口でもよいわけです。

普天間基地は復帰前に住民を強制的に排除し、米軍が基地を造り支配した場所です。ですからせめて普天間基地を返還するなら県外に移設すればよいと考えているのです。 本土でなら決して造ることが出来なかった普天間基地なのです。

復帰前の沖縄でも、本土で使われていた教科書を使って授業を受けていました。書いた様に言葉は文化や歴史なのだと考えます。それこそ英語に変わっていたらアイデンティティも消失したのかも知れません。

沖縄は随分と変わりました。その変化を実感出来た沖縄に生まれてよかったと考えています。 平和は失って初めてその大きさに気がつきます。 どうか少しでも平和が続くことを祈りたいです。

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