世界を夢みて(219): バスク(ゲルニカ)を理解するための基礎知識?
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ゲタリアを観光後にピカソの大作「ゲルニカ」で有名な街のゲルニカに向かいました。恐らくゲルニカのことを知るためにはバスクの歴史を理解しないと分かり難いかもしれません。そのためにゲルニカ観光の前にバスクの歴史や背景を記載します。
もの凄く大雑把で間違いも多いかも知れませんが・・・ご了承を😅
①スペインとフランスにまたがるバスク地方(スペイン側にバスク州の3県とナバーラ州の計4領域とフランス側に3領域)には、ヨーロッパでも最古の民族であると言われるバスク民族が暮らしており、言葉も文字も他のヨーロッパ圏と異なる、極めて習得が難しいと言語体系と言われています。 紀元前800年頃にはバスク人が主体のナバラ王国ができ、代々その君主が納める国家となります。1515年にナバラ王国の大部分がカスティーリャ王国(今の殆どのスペイン領)に編入される形でスペインが出来上がります。その後しばらくは緩やかな統一で旧ナバラ王国下のバスク人の自治も広く認められる感じが続きます。
②ゲルニカの街はバスク自治州の自治・独立についても非常に重要な意味をもつ町だといわれています。中世の頃よりバスクのビスカヤ地方の村々では大きな樫の木(オーク)の下で集会を開き、領主もこの木の下で宣言をすることで認められたとのことです。現在もゲルニカにあるバスク議事堂の広場には樫の木があり、古くからこの地域の議会はこの樫の木の下で行われていました。「ゲルニカの木」と呼ばれるこの樫の木はバスクの自治・独立の象徴でもあり、バスク自治州の紋章にも描かれています。ゲルニカはバスク民族主義の象徴でもある街なのです。
③1839年頃よりマドリードを中心とするスペイン政府によってバスクの権利や自治が剥奪されてゆきます。それに反撥するようにバスク民族主義運動が高まって分離独立の機運も高まります。
④第一次世界大戦後スペインは左右の政党が激しく争いながら政治が安定しない状態となります。1931年にいわゆる左派の政権が選挙で誕生します。これに反撥する右派の軍隊を率いていたフランコ将軍が反乱を起こし、スペイン内戦が勃発します。 選挙で選ばれた左派政府は人民戦線(共和国軍)となり、ソビエトやメキシコが支援(イギリスやフランスなど多くの国は中立か支持)に回ります。一方フランコ将軍の反乱軍側にはドイツとイタリア、ポルトガルなどのファシズム国家が支持をすることになります。内戦は次第に反乱軍が優位になってきます。ファシズムを嫌う若者たちや知識人が世界から共和国軍の支援に戦闘に加わります。その中にヘミングウェイもいました。その経験の中から「誰がために鐘は鳴る」という小説が出来上がります。
⑤反乱軍が次第に優性になる中で北部のバスク地方にもフランコの影が押し寄せて来ます。バスク人の多くは自治権剥奪を行うフランコに対抗するために共和国支持に回ります。
⑥ドイツとイタリアはこの時期に急速に軍事力を高めて行きます。ドイツ軍は空軍の力を試す場所を捜します。この軍事作戦でこの後の空軍の破壊力を知ることになり世界の戦争のやり方が一変します。ドイツ空軍のコンドル軍団とイタリア空軍はフランコを支持する目的と軍事実験のために、バスクの中心都市のゲルニカを空爆の目標とします。これは人類史上初めての空軍による緻密に計画された無差別都市攻撃となります。その空爆は三波に分かれ、まず爆撃機が破壊力の高い爆弾で建物を破壊し、その直ぐ後に戦闘機が機銃掃射を行い住民を射撃、その後は焼夷弾によって街を焼き尽くすことを行い、ゲルニカはこれまでの戦争にないほど跡形もなく破壊されてしまうのです。
⑦スペインでゲルニカ爆撃が行われていた時にフランスでは万国博覧会が開催されていました。スペイン館は元々選挙で選ばれていた共和国側の出展でした。当時フランスにいたピカソにスペイン館への絵画の出展依頼があり、その時ピカソは他の題材を構想していたそうです。 しかしゲルニカの爆撃は世界中に衝撃をもたらし、パリの新聞にもこの惨状が一面に載ります。 それを見たピカソは激高し、一気に大作「ゲルニカ」を書き上げたそうです。そのため「ゲルニカ」の絵はフランコの独裁政権が崩壊するまでスペインに入ることはなかったのです(現在、プラド美術館を経てソフィア王妃芸術センター(マドリード)にありますが、近年マドリードよりもバスクに置いた方がいいとの声も高まっているそうです)
⑧その後スペインは第二次世界大戦を経てフランコ将軍のよるファジズム国家となります。フランコはバスクを更に弾圧します。バスクの文化は完全に否定され、バスク語の使用も完全禁止さます。その鬱積がバスクの民族運動に火をつけます。その中からバスク祖国と自由(ETA)が結成され、次第に武力闘争となります。1975年にフランコ将軍病死後の1979年に自治憲章によってバスク4州は独自の徴税権や州警察などをもつ自治州となります。しかしその後もしばらくはスペイン中央政府とETAの対立は残り、1983年にスペイン政府の非公式の対テロ特殊部隊とETAの間で爆破や暗殺が繰り返される悲惨な状況が続きます。これもやっと2006年に無期停戦合意となって落ち着きを取り戻しているのです。
⑨長い間禁止されていたバスク語も復権されましたが、元々難しい言語のため、禁止されていた世代はバスク語を話せない方が多く、今では子供達が学校の教育などを通してバスク語を習っているとのことです。この旅行を通してバスクの人々は自分達の民族の誇りを持って強く生きているように感じました。
・・・私の浅薄な知識で 非常に大雑把にゲルニカとバスクの状況を説明しました。バスクの人々の背景を理解しないと、バスク地方を旅行しても、単に街が綺麗で食事が美味しかったで終わってしまいそうです。バスクの歩んだ背景を知りることで、複雑な歴史を乗り越えて逞しく生きるバスクの人々をよりリスペクトでき、旅がより深いもになると感じたのです・・・
次回はゲルニカの散策を書きたいと思います。
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