苦しくても敏感で有り続けること
年齢を重ねると、何となくわかった気分(諦めの気分?)になり世の中こんなものだよと知ったかぶりをしたくなる。
齢を重ねただけで、何が変わったのだろうか? 人に対しても世の中に対しても鈍感になれたらひょっとして楽になるのかと考えたりもする。
でも肉体は老いぼれても精神は老いぼれたくないなと思うことがある。 敏感であるためには感動もショック(痛み)も受け止めなければなるまい。 感動はいいにしても、ショックに絶えきれる体力が残っているのか未知な部分が出てくる。
しかしもっと感動したいと心が欲する。苦しいと叫びながらもまだまだだぜと叫ぶ自分もいる。 世間ではじじいと思われる年になっても、まだ青春の呪縛から開放もされずおろおろとするのだ。 妄想のなかで生きている。 悲しいことに敏感に感じて心が痛くなる。
鈍感力を求めず生きづらさを選択した。結果、多くのことを敏感に感じ取ることも出来るようになったと思う。 人に対しても自然に対しても美に対しても敏感であるが故に、より多くを得ることが出来る気になっている。 これも苦しさとの取引をして得ているのだ。 神がいるかどうかは分からないも、きっと神はバランスを取ってくれているのだろう。 そう信じながらまた生きてゆくのだろうか?
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先生、こんばんは。
いま何度も繰り返し、読み返し…
先生のコトバを感じていました。
医療のお話、旅のお話、生け花のお写真、先生の歌声…
いつもいろいろな話題で楽しませていただき、
時にお勉強させていただいたりしていますが、
ときどき先生が、そっと呟くように語ってくれる、
今日みたいなお話も、わたしはとっても大好きです。
投稿: アケ | 2018年2月25日 (日) 22時55分
アケさん、こんばんは。
いつも、優しい眼差しで見て頂きありがとうございます。
私のブログは沢山の話題と言うより支離滅裂なのでしょう。自分自身でも自分が何処に向かって歩もうとしているのか判らなくなる時があります。
深い根っこの部分ではブレないと思うのですが、色々なことに心が揺らいでしまうのです。そんな時に自分に呟くつもりで書いています。この様な文面にも最後まで読んでくれる方がいてくれることが嬉しく思えます。
禿げたオヤジのつぶやきですので、さっと通り過ぎて下さいね。
投稿: omoromachi | 2018年2月25日 (日) 23時56分
omoromachi様、こんばんは
私もアケさんのコメントのよう
に感じていました。
医療情報はもちろんですが
お花や音楽に癒され
時にこの様なつぶやきの時に
我に返ることがしばしば
時々逃げ出したりしたくなる
中でomoromachi様のブログを
読み返して心を打たれることが
あります。
鈍感であり続けると疲れる反面
得ることも多いと思います
神様がいたらちゃんとみてくれて
いるのでしょうか?
投稿: ツクシンボ | 2018年2月26日 (月) 18時42分
ツクシンボさん、こんばんは。
医療情報はもちろん生け花などは半分公的な感じもあり、病院名をつけたブログにも搭載し、ホームページと関連付けていますが、それ以外の旅行や音楽、今回の様なつぶやきなどは個人的な要素が大きいためにこのブログの中だけに書いています。
今回の様なブログの内容は私自身に、そしてこれからの若い人の参考になれたらいいなと思いながら書いていることがあります。ただ人によっては嫌みに感じることもあろうかと心配しています。
アケさんやツクシンボさんがこの様に書いてくれたことに感謝しています。これからも羽目を外して書いてしまうかも知れませんが、その時には無視してスルーして下さいね。
(昨日書いたのに投稿していなかったようで、この時間帯の返書になっています。遅れて済みませんでした)
投稿: omoromachi | 2018年2月27日 (火) 09時55分
こんにちは。
奇しくも トトロブログにも似たようなことを書いたばかりでした。
オトナとは、わかったふりで曖昧なまま流す人ではなくて、芯のところにちゃんと敏感な部分をもちながら、あらゆることに一歩は慣れて対応し、真実を見極めることの出来る者のことを言うのだと思っています。
私も いつまでも年齢相応になれず 苦しいこともありますが、今はそれでいいと思っています。
子ども達の敏感な心に寄り添えるから。
「こういうもんだ。」とあきらめず、本物の目を持ち続けたいものです。
それは とても勇気がいりますが、素敵なこともたくさんあって 感謝の多い人生になると信じています。・・・こちらも 少し春めいて来ました。
投稿: アトリエトトロ | 2018年2月27日 (火) 15時43分
アトリエトトロさん、こんばんは。
同じ様な文面をお書きになっていたのですね。トトロさんが書いてありますように、曖昧さで終わるのではなくて、これまでの経験を生かしてしっかりとした対応することが大人たる所以なのですね。
適当に流してしまうのは簡単でしょうが、同じことが起きた時にまた逃げてしまうのかも知れません。そうなれば何時になっても成長しない自分がいるのかも知れません。
今年は鳥取も雪が多かったでしょうが、少しずつ春の気配が訪れるのでしょうね。春は楽しみです
投稿: omoromachi | 2018年2月27日 (火) 19時58分
omoromachiさん
そうです、私も同じです。
>しかしもっと感動したいと心が欲する。苦しいと叫びながらもまだまだだぜと叫ぶ自分もいる。
確かに今まで感じ気づいていたことではあっても、今またこうして言葉にもし、拙いながらも文章にするようになってきました。今の私は年月を重ねてそのことをより感じ思うようになってきたのだと思っています。。そして『こんな出会いがあって感動した』そのことを周りに話し、文章にもすると、多くの人は『毎日のことで精いっぱい、そんなこと思う余裕ないねん・・・』と言われるようになりました。目の前にあって手に取れるものだけが全てなのです。勿論それも大切なことです。
omoromachiさんは>世間ではじじいと思われる年になっても・・・・
とおっしゃいますが、私は常に思っています、我々人間は想像し・妄想することができるそういった生き物なのだと。。
鈍感であるとか敏感を選択するとかではなく、
それは人との出会いはもちろん生きとし生けるものへの憧憬であり愛を感じるからこそ、心が敏感になり、そこからのものは孤独もあり大きな衝撃もあるけれど、人として生き続けられたらと思うのです。
こんな風に書きながらも心が折れそうになる自分がいます。。。
投稿: mirro | 2018年2月28日 (水) 01時52分
mirroさん、こんばんは。
mirroさんの文面、深く感じながら読まさせて頂きました。私も今、この様なブログの記事が書けているのも幸せなことだと思っています。
人の時間の捉え方も様々ですね。本当に毎日のことが精一杯と言う方もいますが、考える努力を怠っている方もいる様に思えます。 忙しくて考える余裕などないと仰る方が、テレビを観たりお酒を飲んだりする時間はつくれる方を日々の生活でも見ることがあるのです。 考えることに逃げなければ何時でも何処でも考えることは可能と思えるのです・・・
感動する心を持ち続けることは、年齢や鈍感・敏感を超えていることかも知れません。 感動する心で突っ走ってゆきたいですね。
投稿: omoromachi | 2018年2月28日 (水) 19時26分