バルト三国に行ってみたい1つの理由が杉原千畝記念館(旧領事館)訪問にありました。
地球で1番怖いのが人だし、1番優しいのも人だと思います。その恐怖の最たるものが戦争とそれに付随する差別や偏見、暴力です。しかしこの狂気の世界であっても救う人がいたことに感銘を受けます。 映画の「シンドラーのリスト」にもなったシンドラーについてはよく知っていても、20年前までは私自身は杉原千畝さんのことを殆ど知りませんでした。
日本でも最近、杉原千畝さんが本や映画などで話題になり、私も改めて杉原千畝さんに関心を持ちました。
ロシア語が堪能だった彼はソビエトに近いリトアニアの領事代理として家族と共に赴任します。初めはリトアニアの首都のヴィルニスに領事館はあるも戦況が緊迫する中で、カウナスの日本領事館に移動します。日本はドイツ、イタリアと同盟関係でしたが、ドイツにおいてはユダヤ人の虐殺が始まっていました。ユダヤ人というだけでドイツの占領下にいることは虐殺される状況に追い込めれていたのです。
1940年7月の朝、突然多くのユダヤ人がカウナスの日本領事館に殺到します。彼らは日本への通過ビザを求めて押し寄せたのです。これがあればソビエトを経由して日本に行け、その後、アメリカなどの第三国に亡命することが出来たのです。彼らにとっては命のビザだったのです。
当然、杉原千畝さんは日本の外交官です。ビザを認めることは同盟国ドイツに敵対する行為となります。分かっていても、杉原千畝は、日本政府にビザ発給の許可の電報を打ち続けます。しかしその都度「否」とされます。
戦況が緊迫する中で、杉原千畝さんもリトアニアの日本大使館を出国しなければならなくなり、その日が刻々と迫って来ます。大使館員としての使命、しかし目の前にいる罪もない人々の命が自分の手に委ねられていることへの苦悩と葛藤はどれ程のものであったかと想像されます(・・・それを探りたくてこの場所を訪れたのです)。
出国期限が近づく中で杉原千畝は決断します。「私を頼ってくれる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背くと・・・」 。その決断後の半月は昼夜を分かたず、ペンが折れ、手が動かなくなるまで書き続け、リトアニアを脱出する電車の中でも書き続けたそうです。
発行されたビザの数は1600人分、その家族も一緒に通過出来るために最終的にユダヤ人5〜6000人が彼のお陰で命を救われたのでした。まさに「命のビザ」を信念に基づいて書いたのです。

終戦時、杉原一家はブカレストの大使館でソビエト軍に身柄を拘束され、その後命からがら日本に帰国します。当然、彼は日本のお上に楯突いてこのような行動をしたのですから、外務省も叱咤し退官に追い込ませます。戦後しばらくは彼の名誉回復はならず、外交官としての資料も殆ど廃棄されてしまっていました。
彼の名誉回復を計ってくれたのは、私達日本人ではなくて、彼が救ったユダヤ人達だったのです。カウナスで命のビザを受けた方が、新生イスラエル国の外交官となり、更に多くのユダヤ人達が杉原を戦後捜したのです。しかし「外務省の返答は」このような外交官はいないと、誠実には捜してくれなかったのです(彼の呼び方が日本語どおりでなかったのもありましたが)。
命を救われたユダヤ人達はその後も熱心に命の恩人を捜し続け、やっと外務省と杉原との公式電文を入手し、杉原千畝を探し当てます。その時もユダヤ人社会はなぜ杉原千畝の名誉回復を日本政府が行わないのか疑問を投げかけています。
1985年(昭和60年)イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救った功績にて、杉原千畝さんは日本人では唯一「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞することが出来たのです。
日本国政府による公式な名誉回復は彼が亡くなって14年経った、2000年10月10日でした。
ヴィルニスには、彼の功績をたたえ、「スギハラ通り」と命名された通りができ、生誕100年を期に日本の桜が植樹され、2001年に彼が在籍した早稲田大学の手によって「杉原千畝記念碑」が建てられています。
もう一度自分がこのような状況になった時に、どのような決断ができるのだろうか? 千畝さんのように逃げずにやれるのだろうかと自問する旅でもありました。
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