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2017年7月 2日 (日)

世界を夢みて 56 :杉原千畝(苦悩と決断)

バルト三国に行ってみたい1つの理由が杉原千畝記念館(旧領事館)訪問にありました。

地球で1番怖いのが人だし、1番優しいのも人だと思います。その恐怖の最たるものが戦争とそれに付随する差別や偏見、暴力です。しかしこの狂気の世界であっても救う人がいたことに感銘を受けます。 映画の「シンドラーのリスト」にもなったシンドラーについてはよく知っていても、20年前までは私自身は杉原千畝さんのことを殆ど知りませんでした。

Th_dsc05420 日本でも最近、杉原千畝さんが本や映画などで話題になり、私も改めて杉原千畝さんに関心を持ちました。

ロシア語が堪能だった彼はソビエトに近いリトアニアの領事代理として家族と共に赴任します。初めはリトアニアの首都のヴィルニスに領事館はあるも戦況が緊迫する中で、カウナスの日本領事館に移動します。日本はドイツ、イタリアと同盟関係でしたが、ドイツにおいてはユダヤ人の虐殺が始まっていました。ユダヤ人というだけでドイツの占領下にいることは虐殺される状況に追い込めれていたのです。

1940年7月の朝、突然多くのユダヤ人がカウナスの日本領事館に殺到します。彼らは日本への通過ビザを求めて押し寄せたのです。これがあればソビエトを経由して日本に行け、その後、アメリカなどの第三国に亡命することが出来たのです。彼らにとっては命のビザだったのです。

当然、杉原千畝さんは日本の外交官です。ビザを認めることは同盟国ドイツに敵対する行為となります。分かっていても、杉原千畝は、日本政府にビザ発給の許可の電報を打ち続けます。しかしその都度「否」とされます。

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戦況が緊迫する中で、杉原千畝さんもリトアニアの日本大使館を出国しなければならなくなり、その日が刻々と迫って来ます。大使館員としての使命、しかし目の前にいる罪もない人々の命が自分の手に委ねられていることへの苦悩と葛藤はどれ程のものであったかと想像されます(・・・それを探りたくてこの場所を訪れたのです)。

出国期限が近づく中で杉原千畝は決断します。「私を頼ってくれる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背くと・・・」 。その決断後の半月は昼夜を分かたず、ペンが折れ、手が動かなくなるまで書き続け、リトアニアを脱出する電車の中でも書き続けたそうです。

発行されたビザの数は1600人分、その家族も一緒に通過出来るために最終的にユダヤ人5〜6000人が彼のお陰で命を救われたのでした。まさに「命のビザ」を信念に基づいて書いたのです。

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終戦時、杉原一家はブカレストの大使館でソビエト軍に身柄を拘束され、その後命からがら日本に帰国します。当然、彼は日本のお上に楯突いてこのような行動をしたのですから、外務省も叱咤し退官に追い込ませます。戦後しばらくは彼の名誉回復はならず、外交官としての資料も殆ど廃棄されてしまっていました。

彼の名誉回復を計ってくれたのは、私達日本人ではなくて、彼が救ったユダヤ人達だったのです。カウナスで命のビザを受けた方が、新生イスラエル国の外交官となり、更に多くのユダヤ人達が杉原を戦後捜したのです。しかし「外務省の返答は」このような外交官はいないと、誠実には捜してくれなかったのです(彼の呼び方が日本語どおりでなかったのもありましたが)。

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命を救われたユダヤ人達はその後も熱心に命の恩人を捜し続け、やっと外務省と杉原との公式電文を入手し、杉原千畝を探し当てます。その時もユダヤ人社会はなぜ杉原千畝の名誉回復を日本政府が行わないのか疑問を投げかけています。

1985年(昭和60年)イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救った功績にて、杉原千畝さんは日本人では唯一「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞することが出来たのです。

日本国政府による公式な名誉回復は彼が亡くなって14年経った、2000年10月10日でした。

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ヴィルニスには、彼の功績をたたえ、「スギハラ通り」と命名された通りができ、生誕100年を期に日本の桜が植樹され、2001年に彼が在籍した早稲田大学の手によって「杉原千畝記念碑」が建てられています。

もう一度自分がこのような状況になった時に、どのような決断ができるのだろうか? 千畝さんのように逃げずにやれるのだろうかと自問する旅でもありました。

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コメント

omoromachi様、こんばんは。

私も杉原千畝さんについては
興味があり書籍や映画も
観ました。

このような外交官が日本にも
居たことに誇りに思いますし
戦前の軍事同盟の中で
このようなことを行うのは
家族を含めた命にも
関わる大変な問題だった
と感じます。

加計学園問題で官僚が
正義を果たしたことに対して
政権が圧力や個人攻撃を
しているのを観ると戦前と
何も変わらない政治の世界
の様で怖くもなります。

omoromachiさんの旅行記は
単なる写真や食べ物の紹介
だけでなく、読んでいても
この国の歴史や文化
そして、omoromachiさんの
その国々に対する尊敬が
垣間見られて嬉しく感じて
おります。

お忙しいと存じますが、色々と
ご紹介下さい。

ツクシンボさん、こんばんは。

ツクシンボさんは映画や本もご覧になったのですね。私の方や映画は観たことが在りませんでしたが、リトアニアの旧大使館には映画のポスターが張ってありましたよ(ブログに載せていますが)。

杉原さんのような外交官がいたことを20年程前に知りました。もちろんイスラエルでは有名でしょうが、リトアニアやポーランドで杉原さんのことは多くの方が知っているようでした。日本でも彼の名誉回復が果たされ良かったと思いますが、せめて彼が存命中にやって欲しかったですね。

私の旅行記は語彙力がなくて、その土地の独特な様子を伝えることが出来ませんので、自分が旅行で感じたことを記憶として書き残したいと思い付け加えています。 

基本的にはどの国にも自分以上に素晴らしい人々がいますので、リスペクトするのが当たり前と考えて旅行しています。偏見や嫌な思いを持って接するのであれば、相手も私達の国を必要以上に悪くみると思うからです。

いつも暖かいコメント頂きありがとうございます。

shiroyama.kです。ご無沙汰しております。

一昨年杉原千畝の映画を観ましたよ。あの軍国主義の時代にこの様な日本人がいたことを知ることが出来ました。映画自体も杉原さんのスパイ活動の面と人道的な行動の両面が描かれ飽きませんでした。
この様な方がいたことに対して、日本政府はどうして彼の名誉回復にこんなに時間がかかったのでしょうか? 学校の教科書に記載し、こんな素晴らしい日本人がいたことを教えて欲しいと願いました。

安倍政権下ではこの様な外交官も一蹴されてしまい日の目をみないでしょう。日本人も自分達の誇りの為にも「正義」を貫く人を尊敬すべきだとおもうのですが・・・如何でしょうか?

omoromachi様の音楽も好きですが、この様な旅行記も好きです。このブログにはいつも優しさと正義感が溢れていて大好きですheart04。いつも楽しみに読んでいます。Kよりgood

syiroyama.kさん、こんばんは。

この映画ご覧になったのですね。私は残念ながらまだ見ていません。 
今の時代より困難な状況において、最後は良心に従ったのには本当に頭が下がります。 この様な方がいらっしゃっただけでも同じ日本人として嬉しく思います。

戦後、ダイナミックに変わった日本ですのに、何故杉原さんの名誉回復が果たされなかったのには疑問を感じます。2000年に名誉回復を果たしたのが、河野洋平外務大臣の時代だったのは、分かる様な気がします。
今の日本政府ではやらなかったのかもしれませんね。なんたって加計学園の問題でも、役人のせいにするような方々ですもの。

何時の時代も「正義」の定義はぶれないことだと感じます。

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