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2015年1月21日 (水)

言論の自由と責任

新聞社が載せた風刺画を巡り、沢山の問題があぶりだされています。自分の思想と反対だからテロや殺害を行うことは、まともな考えならあり得ないことだと思います。 だからこそフランスを中心にあれだけ多くの人々が参加して言論の自由と野蛮な行動に抗議したのだと思うのです。

Th_223 しかしどの範囲までが言論の自由なのでしょうか? 風刺画だからどんな内容でも良いわけではないと思います。 宗教や民族や住んでいる地域に対する風刺画はその対象となる人々への配慮も必要だと思うのです。

無宗教家の私でさえ、自分が信じているものを一方的に否定されたらいやだろうなと感じるわけです。 テロに屈する訳にはいけませんが、世界はもっと寛容で他人を尊敬しないといけないと思うのです。

表現の自由はいかなる時にも確保されねばなりません。 しかしその表現により傷つく方がいるかも知れないと常に考えるべきですし、その責任も持っていないといけないと考えます。 相手への尊敬がなくなる世界は危険な方向に進むのではないかと心配しています。

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コメント

まさにおっしゃるとおりです。
日本には存在しませんが、フランスには「パロディー権」が認められているという歴史的文化的経緯が他国との違いだと思います。
しかし、それは何でも許されるというわけではありません。
このことはomoromachi先生と同意見です。

今後、フランス国内で「パロディー権」についての反省と一層の議論が必要だと思います。

omoromachi先生
いつも有難うございます。

仰せの通りと思います。
表現の自由は当然でもその表現によって傷つく方々がいると
言うことも忘れてはならないことですね。
やたらと刺激するのもどうかな?と感じておりました。

先生のギターにのせての甘いお声を拝聴させて頂きました。
また楽しませて頂きますね。

カナダへのご旅行の記事も拝見。私も懐かしく久しぶりに自分の旅行記を読みなおしましたよ。ウィーンへも行かれてますね。私は駆け足でしたが2度訪れ、できたらもう一度、と思いながらついに果たせませんでした。

はじめまして。 私も全く同感です。
「自由」と言っても、相手の尊厳まで傷つけても良いとは思いません。
少し違うかもしれませんが、
かつて(46年前)、新婚まもなく 姑の信仰している宗教を勧誘されたことがあります。
私は「私がお義母さんの信仰を素晴らしいと思って信仰したくなったら、
そうします。それまで心は自由にさせて下さい」と言った覚えがあります。
若いのに生意気でしたね。 それで強要されることは免れました。
そんなことを思い出した事件でもありました。

とんぼさん、こんばんは。

「パロディー権」について初めて知りました。そのような権利意識の中で育ったことでフランスを初めてする欧米ではあるいみユーモアが受け入れられる背景があったのでしょうね。

おそらく同じ文化圏で育った人だけの社会ではそれが通用したのかも知れませんが、グローバル社会となった世界では通用しない場合も出てきたのでしょうか? 

このようなパロディー権もグローバル化の中で、もう一度検討される必要が出てきているかも知れませんね。

とんぼさん、教えて頂き有難うございます。

マコママさん、こんばんは。

世界の人々はそれぞれが違いがあることを前提に考えないといけないと思うのです。違いがあるから人間は素晴らしいのだと思うのです。 そしてお互いに譲り合わなければ喧嘩ばかりする仲になってしまいます。 仰せの通り本当にお互いに相手を刺激しても結果は良い方向には向かないと思います。

マコママさんのブログで沢山の旅行先の国々を紹介されていて素敵ですよ。私も少しずつ思い出しながら訪ねた国々の感想を書いてみたいと思っています。

拙いブログですが、色々と読んで頂き感謝致します。

お黒ちゃんさん、こんばんは。

同じ意見で良かったです。有難うございます。

そうでしたか、結婚した当時、宗教に誘われたのですね。長年続いている宗教はある意味「道徳的な教え」のような気がします。 心の安らぎを得られる反面、それによって自由が制限される可能性もあると思います。

良い悪いではありませんが、その宗教に入っていれば違う人生があったかも知れませんね。 若い頃は「生意気」だったのでしょうか? 今では生意気ぐらいが丁度良いと言えるぐらいになったのかも知れませんね。 年を取るのも悪くないですね

パロディー、風刺は、される側の気持ちを逆なで
してしまうので、どこまでが、言論の自由か、難しい
ですね。
学校教育で、ほんの一部の子どもが暴言や妨害行動を
する。その子たちの保護者の協力も得られないことも多い
です。子どもだから、無責任な行動が許されて現状を
どうにかしたいと考えています。

nadoyamaさん、こんばんは。

仰る通り、風刺画などはされる側から見たら、本当に不快になると思いますね。

学校現場は本当に大変だと思います。生徒の数だけ教職員は皆に気を配りながらやっているのに、自分の子供の事しか考えない親もいますね。

「子は親の鏡」でもあります。傍若無人な親からはそのような子供しか育たないことも多いでしょう。他人を尊敬出来ない親からはそのような子しか育たないかもしれません。しかし子供も親を選べなかったのも事実で、被害者でもあるのですね。 

子供が社会生活、学校生活の中でやっていいこと、やってはいけないことを学んで成長できたらいいですね。

ネットで検索して、件の新聞社の風刺画がどんなものなのか見てみました。
見て感じたのは、自分が尊敬し信頼する人物のことをこんなふうに扱われたらいやだろうな、ということです。

ヘイトスピーチなどもそうですが、やはり守らなければいけない節度、越えてはならない限度というのがあると思います。

もちろん、だからといってテロが許される訳ではありませんが。


うさぎさん、おはようございます。

風刺画は自分が対象になってない人から見ると、単純に笑えるものでも、その対象となった人・地域・宗教などの方からはバカにされたような嫌な気分にさせるものと思います。

ヘイトスピーチに関してはこのブログでも以前書いたのですが、表現の自由には当てはまらず、脅迫や人権無視の態度ですので、規制の対象となるはずです。

今の世界のキーワードは「相手の気持ちになって考える」ではないでしょうか

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