桜と日本人
いよいよ三月も終わりです。
この時期は出会いと別れの時期でもあります。夢や希望、言い知れぬ不安、悲しみを感じながらも、そこに浸ることも許されず、時間が進んでいきます。 周りが慌ただしいだけに、声も上げることができず、一人だけ取り残されているような不安感を持つこともあると思います。
今、日本列島は一気に桜の時期を迎えています。日本人の中で、やはり桜は特別な花として写るのです。
桜について私達日本人は、その花びらをみながら心の奥底にある情景を思い起こしている気がします。
この心の奥底にある思いとは何だろうと考えていました。その答えを捜している時に、テレビで花見をしている方々のインタビューをみました。「桜は日本人の心ですよ」「武士道と通じる美しさです」と答える方が多かったのには少しびっくりしました。 私自身は、武士道や日本人の心についてあまり理解出来ていません。
桜は武士といわれた少数階級の人々にとっては「散りゆく美」として、ある意味「死」と関連づけられて受け入れられたと思います。 四季のある環境の中で春を待ちわびた多くの日本人(農耕民族)にとって「桜」は「春の象徴」「耕作の時期の知らせ」であり、そこには「生」の喜びがあるのだと思います。
散り際の美学を求め「桜」にこだわった少数派に対して、春に生きる喜びをみいだした多数派においては春の象徴は「桜」でも「梅」でも何でもよかったのかもしれないと想像します。 もしそれが逆の思想だったら、つまり農耕で生きる大多数の人々が潔く散ることを思想とすれば、飢饉や災害の時代を生き抜くことはできず日本は消滅していたかも知れないと勝手に考えてしまいます。泥臭くても生き抜く力がなければいけないと思うのです。
士農工商などの身分制度があった時代でも、狭い日本では袖を付き合わせて生きてきたはずです。お互いに影響しあい、春を心待ちにする気持ちはどの階級も一緒だったと思います。 そして現在の日本でも、家庭や会社、職種、地域による違いがあっても、皆が桜の木の下で、その枠を取り払って、楽しむことが出来る。 そのようにして「桜」は日本各地に植えられ、皆が納得する春のシンボルになったと考えるのです。
桜の花は「生」と「死」(あるいは「出会い」と「別れ」)の2つの感情が交差しながら、日本人の心の中に生き続けていくのかも知れません。
桜に春の暖かさを感じながら寂しさも併せ持つ感情は素敵だと思いますし、そのバランスを大切にすべきだと考えます。
「久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ」(日の光がこんなにものどかな春の日に、 どうして桜の花は、はらはらと落ち着いた気持ちもなく、散ってしまうのだろうか)〜古今和歌集:紀貫之〜
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